のぞみはありませんが、ひかりはあります。
南無阿弥陀仏
のぞみはありませんが、ひかりはあります。
南無阿弥陀仏
お西さんへお参りさせてもらい、新福菜館へリベンジ。
昨日より空いてる。
南無阿弥陀仏
本日無事、お陰様をいただきまして、45名の御同朋と共に受式する事が出来ました。有難う御座いました。
別院時代の後輩の子供たちと得度式でバッタリ。同じとなみ詰所に泊まってたとのこと。二重にびっくり。
専修学院の同期が参衆のお仕事でバッタリ廊下で会い立ち話し。旧五箇寺の関係なのか本廟部?式務部?にお勤めとのこと。少しですがお話し出来たのも良いご縁でした。
本当に有難う御座いました。
南無阿弥陀仏
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
南無阿弥陀仏
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
得度式の朝
南無阿弥陀仏
「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」と聞いたら、驚く人が多いのではないでしょうか。実は、親鸞聖人は、常に仰っていたお言葉として、親鸞聖人の曽孫の覚如上人の『改邪鈔(がいじゃしょう)』に記されています。
親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。
近年、自分の死後の心配をする人が増え、人生の終末に向けての活動を「終活」といわれています。自分が入る棺を自ら選び、墓をどうするか、葬儀の規模や誰を呼ぶかの段取りまでする人が、増えているようです。
逝く人も遺族も、葬式・法事・墓などで、死後、迷惑をかけないように、みなの幸せを願うのが一般的ですから、この親鸞聖人のお言葉に驚き、どういう心で仰ったのか、その真意は、なかなか、想像できないものです。
覚如上人は、『改邪鈔』に、その真意を書かれています。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ葬喪(そうそう)を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし。
(意訳)
皆、肉体の葬式ばかり考え、それを教えているのが仏教だと思っているが、そうではない。仏法の信心を最も重く見るのが仏教である。
仏法の信心とは、死んでからではなく、生きている現在に、いつ死んでも極楽往生間違いない身となり、絶対の幸福になることをいいます。
私たちは、何の為に生まれてきたのでしょう。何の為に一生懸命、働いているのでしょう。苦しいことがあっても、生きねばならないのは、なぜでしょう。それは、生きてきてよかったと本当の幸せ、絶対の幸福になる為ではないでしょうか。
仏法を聞いて、絶対の幸福になることを、仏法の信心といいます。生きている時に、絶対の幸福になることを「平生業成(へいぜいごうじょう)」といいます。平生、生きている時に、人生の大事業である絶対の幸福になることが平生業成です。
平生業成は、親鸞聖人の教えの一枚看板といわれます。
親鸞聖人は、平生業成一つ、教えられたということです。死んでからではなく、生きている時に、絶対の幸福になれる、これ一つ教えられたのが、親鸞聖人であり、仏教なのです。
それなのに、葬式、法事、墓など、死んだら用事があるものと思われていますので、このように仰っています。
いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし。
(意訳)
葬式などは問題にならない、すぐに止めなさい。
さすがにあきらめました💦