仏教には因果論という教えがあります。辞書には
「果応報とあり、そかの善悪に応じて、その報い
があることと書かれています。
わかりやすく言うと良い行いをすれば良い事があり、悪い行いをすれば悪い事があるという考えです。
それは善因善果、悪因悪果とも呼ばれ、仏教の因
果論ではなく、偽経の誤った因果論の解釈です。
例えばひとたび自然災害が起これば、良いことをしようと心がけてる人。何にも思っていない人。言仰をもっている人、いない人。祈願していた人、していない人。平等に被災します。
被災はとてもつらく悲しく厳しいことですが、何が起こってくるかわからないという状況は人間の思いや努力では変えられません。
そして、その何が起こってくるかわからない世界と同じで、状況次第で私の心も何が飛び出してくるかわかりません。
仏教は「因はこれ善悪、果はこれ無記」と教えられます。起こってきた結果は、苦楽であって、善でもないし悪でもない。
私たち一人一人がその起こってきたことをどう受け止めるかを問題にします。
消してしまいたい過去の過ちも、そのことが自分を大切なことに目覚めさせる出来事に変えていくかどうかは、私たちがそのことをどう受け取るかで決まるのです。
その因果論を善因楽果、悪因苦果といいます。
それは、「これまでが」「これからを決める」のではなく、『これからが」「これまで」を決めると言うことです。
今まで、生きてきた人生の全ての出来事は無駄では無かった。つらい事も悲しい事も、嬉しい事も楽しい事も苦しかった事も、良い事も悪い事も全て無駄では無かった。
生まれて来て良かった。
今まで生きて来て良かった。自分は自分で良かったと、決めるのはこれからです。これからがこれまでを決めるのです。
良いとか悪いとか理屈抜きに、いのちの事実に目覚めていくのです。
いのちの事実は、思いが破れた成れの果ての姿です。その事実から目をそらさず、自分を認める勇気をいただいて行く人生だからこそ、
人と人とが、温もり合える関係にもなるし、世界で起こっている争いは無くなるのではないでしょうか。世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ
南無阿弥陀仏