「雲が白いことも
風が音をたてて
ふいていることも
ささの葉が青いことも
犬が犬で
猫が猫であることも不思議でならない」
(小学四年・岩田有史)
十歳の岩田少年は、雲が白いことも、風が音をたててふいていることも、不思議でならないという。雲が白いことを不思議だと感じる世界を、教育を受けた大人たちはすっかり忘れてしまった。その不思議に対して、賢い大人たちはさまざまの答えを与えるだろう。
しかし、岩田君はなお「不思議でならない」とつぶやくのではないだろうか。
「雲は感情もなく
意志も
前には一度持ったが
今は無く
不思議な力につかまえられて
だだっ広く寝そべっている」
(八木重吉・詩)
この詩は単に雲をうたったものであるまい。自他への誠実を尽くし、みずからの生命の本当の在り処を求めて、ひたぶるに生きた詩人・八木重吉が、その懊悩の中から、はからずも至りとどいた世界を雲に託してうたったものであろう。
不思議ということは、意味がはっきりしない、あいまいな世界を言うのでもなく、また逃避の感情でもない。思議とは人間の思慮分別のことであろう。人間の思慮分別を、もっとも確かなものだと錯覚してしまったところに、今日の人間の迷いの、苦しみの根源があるのではないだろうか。よくよく案じてみれば、私たちの生命は、ただ不思議ということに支えられてあるのではないか。不思議だなあ”。自己の全存在をそういう感慨でもって頷ける人は、なにより広大な明るい世界を生きている人であろう。不思議とはわからないことではなく、明らかになったことへの驚きである。人間の一切の歩みはそこから出発しているのだ。
(松本梶丸 生命の見える時より)