念仏申す

かつて信國淳(のぶくにあつし ※)という先生が「わかってもわからんでもいいから、お念仏(ねんぶつ)申しなさい。そしてお念仏によって育てられなさい」とおっしゃいました。人間というのは仏さまのはたらきによって、また如来(にょらい…「阿弥陀如来」)によってお育てに預かることが大事だと。では、育てられるとはどういった意味なのでしょうか。仏教を学んで賢い人間になる、知識や教養に溢れた人間になる、立派な人間になっていく、もう少し優しい心を持つような人になっていく、となるように育てられるという意味なんでしょうか。
 育てられるということは、如来の問いかけを聞く者となっていくこと。日々起こる事象、事柄を通して、「あなた自身どういう人間として生きていますか」。あるいは「煩悩具足(ぼんのうぐそく)であるあなた自身に帰っていますか」という問いかけをきちんといただくということが、お育てに預かるとか念仏に育てられるという意味なのではないかと思うのです。決して誰にも負けないような人間になっていくことが仏法(ぶっぽう)を聞くことの意義ではないのです。
信國淳
1904~1980。元大谷専修学院院長、大分県來覺寺前住職。
中野 誠二氏
真宗大谷派 大昭寺住職(北海道)

お寺でご法事

今日は午前と午後の願入寺でのご法事が2軒🙏

どうぞどうぞ、お寺でのご法事お待ちしております🙏

お気をつけてお越しください🙏😌

南無阿弥陀仏

46歳

おかげ様で46歳になりました。

これからもどうぞよろしくお願い申し上げます🙇

昨日は法話会に来てくださった方が、子ども食堂に来た子たちの相手をしてくださったり、地域のみんなが集い、みんなで支え合っているほっこりした時間を過ごさせていただき、嬉しいなあと思いました。良い誕生日プレゼントになりました☺️

有難う御座いました🙏😌✨

南無阿弥陀仏