ある先生は、お参りに行くと毎月いるはずのお宅がたまた留守だったそうです。僕なら、すぐ次のお参り先へ移動するところですが、その先生は玄関先でドアに向かってお内仏の方へ「正信偈」のお勤めをされたそうです。僕はその話を聞いた時、とても恥ずかしくなりました。「正信偈」の歴史の長さと深さと重さを感じる衝撃的なお話しでした。それは、「正信偈」の意味を理解して分かる大切さではなく、理屈抜きで忘れていた大切な何かを教えていただいた出来事でした。
感動とはすべての意味が分かってから感動するのではありません。ビートルズの曲も英語の意味をすべて理解してから感動することはありません。理屈抜きで感動します。そして、そこから少しずつ何を伝えようとしているのか意味を学んでいくのです。
「お磨きの方法もいろいろあると思いますが、商品名もその働き、効能を表している。ピカール事態が光ってるわけではありません。白い液体のワックスですから。ピカールの働きが本来の輝きを取り戻すのです。ひかると言う実験の効果があればこそ、なるほど、ピカールはピカールであったと言えるわけです。」百々海真先生
「事実体験が先、名前は後からです」
と言うことで教えていただきました。
南無阿弥陀仏
