一水四見

お盆ですね。今年は空梅雨ですが、まだ梅雨明けの発表はありません。同じ雨でもそれぞれの思いを通してみると、見え方が違ってきます。用事があり外に出かける私が見る雨は「あいにくの雨」になりますし、田畑をされる農家の方からすれば、この時期の梅雨が「めぐみの雨」と見えるはずです。お酒が好きな人には、暑い日に目の前にあるキンキンに冷えたビールがとても魅力的に感じても、お酒が飲めない人にはそう魅力を感じるものではないでしょうし、むしろ飲みたくないものに見えるかもしれません。
こういうことを仏教では、「一水四見」(いっすいしけん)の譬えで教えます。つまり、一つの水が、その生き方、その境遇によって、四通りに見られるというのです。水は、われわれ人間にとっては、文字どおり水ですが、菩薩は、これを瑠璃の大地と見る。魚は、住家と見る。そして、餓鬼は、この水で咽喉を焼く、つまり火と見ると教えます。
餓鬼というのは、いつもガツガツしているもの。いつも、なにか足りないものがあって、満足するということがないもの。これが餓鬼ですから、これは飲んでも飲んでも満足できず身を傷つけていくことを教えています。
そのように、同じ水でも、いろいろに見られるのです。干ばつで困って、雨乞いをすることがあるかと思えば、洪水にあって、水を呪うこともあるでしょう。水がなければ生きてはおれないけれども、ありすぎても生きていられません。あるとかないとか、多いとか少いとかと、自分が置かれた境遇、縁にしたがって、一喜一憂します。
人間は、ああだとか、こうだとかと、いろんなことに出会うたびに、いろんなことを思いますが、思ったようにやってくるとはかぎりません。だから、そこでまた、妄念・妄想を描いていきます。思いのままにならぬ人生に対して、「こうだったら」、「こうなってほしい」と妄念・妄想をさらに重ねていきます。
大切なのは見ている対象は一つなのだということです。私たちの「おもい」は、そのときそのときの条件次第で、様々に変わっていくものです。見る方の境遇が変わると、その見方がちがってくる。見方がちがうものだから、見ている対象までちがっているように思っていますが、そうでもないのです。「あいにくの雨」も「めぐみの雨」も「一つの雨」だと教えてあることは、自分に与えられたり、めぐってきた事を自分の思いを通してみて、しかもその目を疑わない「自我の思い」です。
おもえば、ひとつの出来事を自分の境遇や思いによってしか受け取れていないことには「せまさ」を感じます。自分が見て、受け取っている世界だけが絶対ではない、不完全だということを知っているかどうかが、「せまさ」を知り、他の人と出会っていくための大きな分かれ目なのではないでしょうか。それぞれがそれぞれに重ねてきた経験や与えられた境遇、その時の思いで見えてくる世界は変わってくるということにうなずければ、ひとつの事柄からたくさんのことを知っていくことができます。それは、自我のせまさを知らされ続けていく迷いからの解放の道です。合掌

盂蘭盆会

世間では、7月や8月のお盆の期間に、地獄の釜のふたが開いて先祖や亡き人の霊がこの世に帰ってくるといわれ、また餓鬼道(がきどう)に墜ちたひともお盆の時期は食物が喉を通るので、「施餓鬼」というような行事が行われています。しかしこれは、仏教本来の「お盆」の意味ではありません。

 何もお盆の時期だけ地獄の釜のふたが開くのでもなく、先祖の霊が帰ってくるわけでもありません。私たちのご先祖は、そのように行ったり来たりする亡霊のようなものではありません。したがって真宗では、お盆だからといって「施餓鬼」法要のお勤めはしません。「盂蘭盆会法要」のお勤めをするのです。

「盂蘭盆ウラボン」とは、倒懸(とうけん)」という意味で、逆さまに吊るされた苦しみをあらわします。では、誰が逆さまになって苦しんでいるのかというと、亡き人ではなく、生きている私自身が、真実に逆らって逆さまになって苦しんでいるのです。

 お盆にご先祖をお敬いする行事が無意味だというのでは決してありません。お盆に家族揃って仏前にひざまずいて先祖や亡き人を偲びつつ、賜った生命の尊さを確認し、逆さまになって生きていることを確認する大切な行事が盂蘭盆会です。

「餓鬼どもが 餓鬼に施こす うら盆会(ぼんえ)」

 これは暁烏敏(あけがらす・はや)先生の句です。お盆に施餓鬼をして先祖供養をしたり、常にはあまり気にもしていないお墓に参る。一見美しい礼拝・供養の姿の奥にうごめく醜悪な人間の心情を、ギョロリと見つめられた暁烏先生の心眼に「餓鬼ども」の影が映ったのでしょう。

 「常に飢えたるもの」が餓鬼だと親鸞聖人は言われます。満足感がなく、欲心に追い回され、名利(みょうり)に動く心情は餓鬼そのものです。先祖を諸仏(しょぶつ)としてお敬いすることは尊いことです。しかし、先祖を餓鬼として供養したり、たたりを恐れて、慰霊をしたり、あの世から都合よく守ってもらおうと思う根性こそが、我が身の餓鬼の姿であり、これほどご先祖を侮辱することはありません。

 「盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、目連(もくれん)尊者の母親が餓鬼道に墜ちているのを救うため、釈尊に教えられて法座を立てたことに由来しています。それは、目連自身が仏法を聞く縁に遇って、亡き母を餓鬼道に落としていたわたしに気づかされる尊い仏縁でありました。

 お盆は、あらためて先祖・亡き人の声なき声に耳を傾け、我が身のいのちに目覚める聞法のご縁です。お寺で法座がある場合は、ぜひお参り下さることがもっとも尊い本来のお盆の意義であります。

亡き人を案ずる私が 亡き人から案じられている。いのちと向き合う時間を。

願入寺の盂蘭盆会は7月28日にお勤めさせていただきます。ぜひ、お誘い合わせの上お参りください。お待ちしております。合掌

南無阿弥陀仏