8月の子ども食堂

7月の子ども食堂は、大人子ども合わせて、10名の方が来てくださいました。(プラス住職、坊守2名)
美味しかった美味しかったと、帰りに振り返って何度も子どもたちの声が嬉しかったです🥹
また、来月も頑張ろうと思いました😊
8月もお待ちしております🙏😌✨

「失ったものの大きさは 与えられていたものの大きさであった」(宮城 顗)

「その人を失った悲しみの深さは実はそのまま生前その人からはわが身が受けていた 贈り物の大きさであったのです。かけがえのない大きなものを送られていたからこそ、その人を失ったことが深い悲しみとなって迫ってくるのです」

大切な人を私たちは失った時にで、その失ったことの嘆くあまりに、悲しみの意味というところまで深く考えることができなくなってしまうという時があります。 

心にぽっかりと穴が開いてしまう。

ご飯ものどを通らないその空いてしまった穴を無理やり埋めようとして、

趣味に没頭したりとか、お酒を飲んだりとか、そう言って気晴らしをして忘れようとしたりして行こうとするんですね。新しい何かで埋めようとするんですけれども、でもそういうことでもなかなか忘れられない埋まらない悲しみがなくならないとそういうことがあるかも知れません。でも本当はそうやって無理に忘れようとしなくていいいんだと思います。

今の時、悲しい事とか辛いことを出来るだけ遠ざけて、見えないようにすぐ視界から離れるように排除していこうという発想が非常に強い時代です。楽しいことだけ目に入れて辛いことは目にしないというのが強いですけれども、それでは本当はいけないんだと思うんです。実は悲しみということが、本当にわたしたちをニンゲンにしていくと いうことか、人間を本当に人間にしていくということが

あるんだとこういうことだと思うんですね。だから悲しいことを私たちは排除するのではなくて、悲しみという心を育ててあげるということがをとても大事なんだと思います。

悲しみというのはこうマイナスではないんだと。それ自体どんなお金でも買えないような、どんな宝石よりも価値のある、そういう心なんだとということに私たちはもっと目を向けていかなければいけないんだと思います。

これは批評家の若松英輔さんという方がおられまして、この方がこの悲しみという人間の心に非常に注目をされておられます。

若松さんは、奥様を病気で亡くされて10年間闘病の末に、最愛の奥様を病気でを亡くされます。それはの想像絶する悲しみであったと思うんですが、しかし若松さんは悲しみこそが実は奥様からのかけがえのない贈り物であったとその失った悲しみとともに生きてですね、その悲しみとともに言葉を紡いでおられるんです。

ですから、人生には悲しみを通して、通じてでしか開かない扉があるんだということを常におっしゃっておられます。 これは悲しみという言葉です。

様々な漢字で表現されてきたということを若松さんはおっしゃっておられまして

人々は様々な想いをこの悲しみという言葉に託してきたんだと。ひらがなでは悲しみと一つだけですけど 漢字にするとたくさんの言葉があるんだということを言われているんですね。 私たちがよく目にする悲しみはこれですよね。

この非という字は心の上に非という字がついておりますけどこれは心が左右に張り裂けているそういう状態を表している言葉です。左右に心が2つに張り裂けているそういう叫びだしたくなるような痛みとしてあるような、そういう悲しみをこの悲という言葉でご表しています。そして他にも悲しみという字あります。こういう字がございました

こういう哀という字です。この哀という字は衣という字の中に口が挟まっています。衣の中に口が挟まっている。どういうことかというとつまりこう 衣で口をぐっとふさいでぐっ と抑えてですね表に出さず内側にしまい込むようなそういう静かな内側にしまうような悲しみの心この哀という字でこう表すわけなんですね。

また哀れというふうにもいえます。あわれっていうのはこう他者に使って使われる悲しみです。他者の悲しみを自分のそれのように悲しんでいければそれが哀という字になってくるわけです。

そして、これだけじゃないんだと。私たちこの 2つぐらいしかね意識してなかったですが、これだけじゃないんだと。

この愁という字愁れうという字で悲しみとこう呼んだというふうにこう言われているんですね。愁という字心に秋という字ですから秋を思う心ですね。そのまま。つまり、季節の移り変わりのような情景的なそういうもの寂しさをこの愁という字に託しているわけです。これはつまり昨日までここにいた人が今日はいないんだなーとか、あんなに冗談を言っていたあの人がもういないんだなっていうのはそういうなにか情景的な風景的な寂しさというものを表している移り変わっていうことに対する悲しみです。

でそのことにまた関係するんですけれどもこうゆう字もある。

美という字ですね美しいという字を使って悲しみというふうにもこう読まれたんだそうですね昔の方は。悲しみの底には美というものが潜んでいるんだということです。そういうことを昔の人は知っておられたわけです。例えば桜の花がちっていくときに、私たちはその寂しさというものとともに、美しいと心を持っている わけです。美しさを感じるような心も同時に持っているということがあるわけです。もし桜が散っていくということがなくて、桜がずっとこうね一年中咲き続けるということがあったとしたら、私たちはこれほど桜は愛しただろうか。儚く散っていくからこそ私たちは桜を愛し美しいと思っていくわけなんです。

仏教に無常ということありますが、常になるものなしと書いて無常とこう呼びます。どんな命があっても限りがあるんだと。しかしその無常であるということを、限りある命であるということが実は今この瞬間というものを美しく輝かせるんだとそういうことでもこうあるということなんです。ほんとに大切に今という時間を生きていくことができる。それは限りがあるからです。

そういうわけで悲しみということには、美しさ美というものも含まれているんだとこういうことです。 そして最後に、誰かを愛するというこの愛という字を使って悲しみとこういうふうにこう呼ばれだということなんです。 大切な誰かを失ったその悲しみというのは、同時に私たちがその誰かを心から愛していたんだと言うその愛というものに気づかせてくれるようなそういう悲しみでもあるんだということなんですね。

もし誰かを失うという悲しみ、誰か誰も愛することがなければその人を失うという悲しみも実はないわけ ですから、ですからそういう悲しみということが実は私達にその愛というものを教えてくれる。そうゆう愛の発見という意味がある。こういう五つの意味がこの悲しみという字の中に込められているということがあるんだということを若松さんおっしゃっていかれるわけなんです。だからその悲しみをたくさん経験して いるほど人にをたくさんやさしくなれるということだと思うんですね。誰かの痛みを自分の痛みのように感じていくことができるし、人の美しさというものも知っている。ですからこう悲しみの痛みというのは、無味無臭の痛みではないんですね。必ず深めていけばそこに愛というものにたどり着いていくようなそういう心なんだということをおっしゃっておられるわけです。私たちはだいたいこの一番上の悲しみしか見ないですね。

痛みとしての悲しみばかりに注目をしていてそれをなんとか見ないようにして、心の隙間を埋めていこうとこうするわけなんですが、でも昔の人っていうのはその悲しみということをずっと見つめていかれて、これほどの意味を見出していかれたということですごいことだなということ思います。

ですから皆さんもこう大切な人を失った悲しみということを心に感じられている方も多いと思うんですけれどもその悲しみというものはただの痛みではないということです。私たちの生きる意味というものを教えてくれるような悲しみでありますし、時にこう痛みとしてときに寂しさとして、そして必ず愛に通じているようなそういう悲しみなんだとそういうところなんだということを教えてくださっているんですね。 ですから失ったものの大きさは与えられていたものの大きさであったと。その人を失った悲しみの深さですね。

生前その人が私はわが身に受けていた生前その人から我が身に受けていた贈り物のそういう大きさでもあったということなんです。 かけがいのないものを置くられていたからこそ、その人を失ったことが今深い悲しみとなって私たちの前にこうその悲しみという心を大切に子育てていくということがとっても大切ではないかと思います。(花園一実)