あなたは今、生きていますか。
「そんなこと、あたりまえじゃないか。」
そう思う人もいるでしょう。では、「あなたは今、活き活きと生きていますか」と聞かれたらどうこたえますか。
「いのち」は無条件で尊く、かけがえのないものです。そして、それは自分で自由に作れるものではありません。また、目に見えるものでもありません。
鳥のはばたき、駆け回る犬の姿、咲きほこる花々、そして街を行き交う人間の営み。そのすべてがいのちの姿であり、「生きている」ことです。
しかし、ここでもう一度考えてみましょう。呼吸をし、血液が流れ、心臓が動いているから「生きている」のでしょうか。食べたり、遊んだり、泣いたり笑ったりしているから「生きている」と言えるのでしょうか。「動いていること」と「生きていること」はどう違うのでしょうか。
釈尊は亡くなられる前に、長年そばで教えを聞いてきた弟子阿難の「残された者は、これから何をたよりに生きていけばよいのでしょうか」という問いに、
「自灯明法灯明」(じとうみょうほうとうみょう)と応えられました。
自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
『大般涅槃経』
それは、決して人に流されて生きることなく、自分をたよりにして、いわば自分であることに安心して、自分として生きなさいということです。それは、自分勝手な思いで自己を肯定し、「私は正しい」という思い(=わがまま)で生きていくのとは違います。釈尊の示された真実の教えによって照らされ、その道理によって明らかにされた自分(=あるがまま)に気づくことが大切なのです。
私たちの人生は、さまざまな困難や不自由と出会わなければならないものなのです。人は必ずしも自分の思い描いた通りの人生を生きることはできません。
しかし、その思い通りにならない現実から目をそむけることなく向き合い、わがままな自分自身に「これでいいのだろうか」と問いかけませんか。そこで、人は大切な教えと出会い、「ほんとうの人間」となっていくのではないでしょうか。その中からはじめて「活き活きと生きる」意欲がわき上がってくるのではないでしょうか。
あなたは今、活き活きと生きていますか。
『生まれる生きる生かされる」(東本願寺出版)より