春三月、本州に梅の開花の声が聞こえると卒園、進級の時節到来です。人も草木も若芽がすくすくと育っていく姿を見ると、こちらまですがすがしい気持ちにさせられます。
先日、東幼稚園のあるクラスの文集に園長の言葉を書いて欲しいと言われて「みんなピカピカのいのちをいただいているんだよ。あなたも、わたしも、たいせつにしようね。」と書きました。
うっかりしていると、年を重ねるごとに「ピカピカのいのち」に汚れをつけて輝きを失わせてしまうのです。ではその汚れとは何なのでしょう。自分と他人の持ち物を比べて優劣を競い一喜一憂する汚れです。その持ち物とは時に能力、体力、学力であったり、時には生まれ、育ち、家柄、性別、老若であったり、その人の考え方、受けとり方であったり、また、その人の生活行動全般にわたっての善行ができるかできないか、このような種々の姿をとって持ち物比べが始まるのです。持ち物によって「いのち」が輝いたり、輝きを失ったりするものではありません。「いのち」とは本来輝いているのです。あなたはあなた一杯に、私は私一杯に光を受けて輝いているのです。
詩人の相田みつをさんが「トマトはトマトであるかぎり、それはほんもの、トマトをメロンに見せようとするから、にせものになる」という詩を書いておられます。トマトはトマトで、メロンはメロンで輝く、トマトが持ち物をかえてメロンにならなければ価値がないと錯覚するところに大きな迷いがあるのです。「持ち物比べ」の人間の生き方から「ピカピカのいのちをいただく」人間として共に歩みをさせていただきましょう。
(平成八年三月 帯広別院輪番 名畑龍童)
1月は行く。2月は逃げる。3月は去る。
早いもので、気が付けば彼岸の入り。
今年の年賀状はとうの昔のようですが、ふと見返してみると「先が見えた年」とは何かな?と考えさせていただいております。
釈尊はこの道を進めと指を指して発遣してくださっております。
先が見えた年にして行くとは、「ピカピカのいのちをいただく」人間としての道です。






