雨☔が続きますね(雨不足の時はフレフレと。お花見🌸は降るなと…)
雨花衣荘厳(願生偈)🙏
又風水散華(うふうすいさんげ)
「おかげさまで、私の家は波風ひとつ立ちません」と、言われた方があった。まことに結構な家庭、と言いたいところだが、もし、そんな家庭があったら、お互いが、よほど我慢している、不健康な寂しい家庭であろう。
家庭とは、もっとも深い絆で結ばれた人間の集合体である。しかし、いかに深い絆で結ばれていようと、家庭を構成するひとりひとりは、煩悩具足し、縁いたれば燃えさかる煩悩熾盛の凡夫である。その集合体が家庭である以上、波風が立つところに、家庭というものの生きたすがたがあるのではないだろうか。
湖は風のないときは鏡のようであるが、少し風が吹けばさざ波が立つ。順悩具足を身とした人間は、風という縁によって、さまざまな波を立て、傾悩の花を散らす。これが自然の道理であろう。
「又風水散華」。『大無量寿経』の中にある言葉である。この言葉に高光一也先生(画家・金沢市専称寺前住職、故人)は美しい詩をつけておられる。
又風吹きて花を散らす
私どもの心は
毎日吹雪いて花を散らす
死ぬまで吹雪いて
花を散らすだろう
その花の中を仏は歩みつづける
むろん、波風の立たない家庭は理想であろう。しかし、凡夫の集合体である家庭であるが故に波風は立つものなのだ。ただ、波風が立ったところから、なにを知らされ、どんなわが身が見えてくるかが信仰の大事な課題であろう。
「凡夫というは、無明順悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)。親鸞聖人の悲嘆である。この言葉の前に立つとき、何人が、私はそうでないと言えるだろうか。人間という存在をとらえつくした言葉である。
かくなる私が見えてくるとき、波風が立つことが、波風の立つままに、人間の心のかよいあう、温かい家庭が誕生してくることだろう。しかし、それは、教えを聞くことなくしては見えてこない世界なのである。(生命の見える時 松本梶丸先生)





