世間では、7月や8月のお盆の期間に、地獄の釜のふたが開いて先祖や亡き人の霊がこの世に帰ってくるといわれ、また餓鬼道(がきどう)に墜ちたひともお盆の時期は食物が喉を通るので、「施餓鬼」というような行事が行われています。しかしこれは、仏教本来の「お盆」の意味ではありません。
何もお盆の時期だけ地獄の釜のふたが開くのでもなく、先祖の霊が帰ってくるわけでもありません。私たちのご先祖は、そのように行ったり来たりする亡霊のようなものではありません。したがって真宗では、お盆だからといって「施餓鬼」法要のお勤めはしません。「盂蘭盆会法要」のお勤めをするのです。
「盂蘭盆ウラボン」とは、倒懸(とうけん)」という意味で、逆さまに吊るされた苦しみをあらわします。では、誰が逆さまになって苦しんでいるのかというと、亡き人ではなく、生きている私自身が、真実に逆らって逆さまになって苦しんでいるのです。
お盆にご先祖をお敬いする行事が無意味だというのでは決してありません。お盆に家族揃って仏前にひざまずいて先祖や亡き人を偲びつつ、賜った生命の尊さを確認し、逆さまになって生きていることを確認する大切な行事が盂蘭盆会です。
「餓鬼どもが 餓鬼に施こす うら盆会(ぼんえ)」
これは暁烏敏(あけがらす・はや)先生の句です。お盆に施餓鬼をして先祖供養をしたり、常にはあまり気にもしていないお墓に参る。一見美しい礼拝・供養の姿の奥にうごめく醜悪な人間の心情を、ギョロリと見つめられた暁烏先生の心眼に「餓鬼ども」の影が映ったのでしょう。
「常に飢えたるもの」が餓鬼だと親鸞聖人は言われます。満足感がなく、欲心に追い回され、名利(みょうり)に動く心情は餓鬼そのものです。先祖を諸仏(しょぶつ)としてお敬いすることは尊いことです。しかし、先祖を餓鬼として供養したり、たたりを恐れて、慰霊をしたり、あの世から都合よく守ってもらおうと思う根性こそが、我が身の餓鬼の姿であり、これほどご先祖を侮辱することはありません。
「盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、目連(もくれん)尊者の母親が餓鬼道に墜ちているのを救うため、釈尊に教えられて法座を立てたことに由来しています。それは、目連自身が仏法を聞く縁に遇って、亡き母を餓鬼道に落としていたわたしに気づかされる尊い仏縁でありました。
お盆は、あらためて先祖・亡き人の声なき声に耳を傾け、我が身のいのちに目覚める聞法のご縁です。お寺で法座がある場合は、ぜひお参り下さることがもっとも尊い本来のお盆の意義であります。
亡き人を案ずる私が 亡き人から案じられている。いのちと向き合う時間を。
願入寺の盂蘭盆会は7月28日にお勤めさせていただきます。ぜひ、お誘い合わせの上お参りください。お待ちしております。合掌
南無阿弥陀仏
