お待ちしております🙏😌





住職の独り言ささやきです。親鸞聖人は小さなつぶやきやささやきに耳を傾けて人々の言葉を聞き逃さなかった方だと思います。
お待ちしております🙏😌





R8.3.28(土)第17回小さな寺子屋〜ひよこ〜子ども食堂を開催しました。
〈メニュー〉
🌸春の青菜たっぷり餅入りみぞれあんかけ丼
🌸ラディッシュのサラダ
🌸お寺のおさがりおやつ🍪🍘🍭
今回以下のご提供がありました。
※日鉄テックスエンジ株式会社様より
・ラディッシュ、わさび菜、ふだん草、ルッコラ、アイスプラント、スープセロリ
この場を借りて御礼申し上げます。
〈今回のひとこと〉
お天気がすぐれない土曜日の開催でしたが、たくさんの方にご参加いただきました。いつも参加してくれる子がお友達と来てくれたり、キーボード、ギター、ドラムに触れてみたり。(演奏、ではなかったかな😅)🥁🎸🎹。とても賑やかで楽しい時間を過ごせてもらえたようです。
次回は4月28日(火)です。

食べなくても死ぬけど、食べても死にます。
生きるとは何か。
命は大切だといいながら、他の命を奪い続けております。
他の命を大切にすれば、自分の命が犠牲になり、自分の命を大切にすればするほど、他の命が大切ではなくなります。生きるとは矛盾しているのです。生きるって何かな〜?


先日、ある地を訪れた時、迎えに来てくださった方が車の中でしみじみとこう言われた。「今まで何十年も生きてきて、毎年、桜を見てきたけれど、本当に桜の花を見たことがあるだろうか」と。ひとりごとのように言われたその言葉がなぜか私の心に止まった。
私もまた何十年も桜を見てきたが、果たして本当に桜の花に出合ったことがあっただろうか。
「奇麗な桜の花をみているとそのひとすじの気持にうたれる」と、八木重吉はうたっている。桜の花はみずからの美しさを誇りもせず、人からめられることもあてにせず、己が生命を精一杯に咲かせる。重吉はその一筋の生命を咲かせる桜の花を見て、一筋になれず、ものにふれて散乱極まりない己れの愚かさを知らされたのであろう。
もと北面の武士・佐藤義清は、二十三歳で出家して西行と名乗った。戦乱に明け暮れる日々に、世の無常を感じたのであろうか。その西行に「すて果てて身はなきものと思へども雪のふる日はさぶくこそあれ」という歌がある。出家するということは、名利を捨て、名利に苦しむ頃悩の身を捨てるということであろう。だが、西行は「すて果てて」なきはずの身が、雪の降る日はやっぱり寒いという。ごまかすことのできないこの身の存在を知らされたのであろう。
それからおよそ五百年後、俳人・芭蕉はこの歌の後にさらに次のような一節を添えている。「花のふる日はうかれこそすれ」。花は言うまでもなく桜である。芭蕉は出家したわけではないが、旅に生を託することで世俗を捨てた人でもある。しかし、桜の花が咲くと、どうしようもなく心が浮き立ってくると。私はここに西行や芭蕉のどうしようもないこの身への、目覚めを通した念仏の声を聞くのである。あちこちから桜の便りの聞かれるころとなった。今年は本当の桜の花に出合えるだろうか。(生命の見える時 松本梶丸先生)




今日は朝から怒涛の一日でした。
長かったですが心地よい疲れ。
法話会はぐだぐだになってしまいましたが、一対一の濃い法話会になりました🙏
子ども食堂は19名。過去一多かった😹友達が友達を呼んで初めて来てくれた子も🥹
最後は足りなくなってご迷惑をおかけしてしまいました申し訳ございませんでした💦🙇
坊守は途中で民生委員の仕事で急遽いなくなるしてんやわんや💦💦
月一開催ですが、本当にやっていて良かったなと思うニッパチでした🙏🥹
またお待ちしております🙏😌✨
3月28日(土)の子ども食堂のメニュー
🌸春の青菜たっぷり みぞれあんかけ丼(お餅入り)
🌸ラディッシュのサラダを
🌸お寺のおさがりおやつ













今日は朝からご法務へ🙏
ニッパチの日は、なるべく法務を入れないようにしておりますが、お寺を維持していくためには致し方ないと言うことで、維持出来なければニッパチも出来ないと言うことになります。
おにぎりと、まめやか焙煎国分屋2代目が淹れてくれたコーヒー☕︎
有難う御座います🙏😊
今日も一つ一つ丁寧にと思いましたが、狭い‼️
五条袈裟で丁寧に🙏💦
ニッパチの日
急いで戻らなくっちゃ🏃♂️💨






食べ物として、いのちをつないでいく、いのちがいのちとして保たれていくことを仏教では触っていいます。食べるということは、いのちがいのちとして保たれていく一点です。ただ食べるだけでなくて、場所に触れて食べる。場所に触れたことが食べ物だっていうことです。触食っていうんです。つまり、場に触れている、その場に触れたことによって起こす、さまざまな感じ方です。受け止めかたっていいますか。感じたことが、実は私にとって、私を私として成り立たせてきたというか。別な言葉で言えば、いろんな人に出会いながら、出会った人に育てられながら、教えられたり、育てられてきて、私が私になってきたんだと思います。
お寺さんというのは、出来上がった所に座る。ほとんど、出来上がった場所に住職っちゅうのは座る。若さんの時代からそういうことやってるもんだから、横着になる。そういう感じがします。お茶一杯出す背景というか。そこまでのものがらがやっぱり、薄いんです。そういう体験が薄いから、法事に行ったってぎりぎりに行くでしょ。人のことではない、僕がそうだから。自分でお茶入れたことないもんな。出来上がったとこ行って、周りを動かすことになれきってるとこがあってね。主体的に動くということは、なんか場を感じないと、動けないと思います。そういうことが、何か、僕らの中に欠けているというか、欠如していると部分だと思います。自分が動かんで、全部まわりがやってくれるという体制のなかで、動いてるっちゅうかな。それは、やっぱり場に会いながら、人がなかなか感じられないですよね。
報恩講でおばあちゃんが、何もいわずに布団ひいて寝てた。ということは、おばあちゃんも疲れ切って帰っていったっちゅうことなんですよ。あんまりそういうこと考えないもんな。自分が疲れてるのはよくわかるわ。自分が疲れてるのはよくわかるんだけど、ご門徒さんが手伝いにきて、疲れ果ててというか、おそらく心地よく疲れて帰ったんだと思います。そういうものが、見えなくなっているんだと思います。
ただ一生懸命作ったんでない、ごたごたごたごたしながらの一杯の五目めしがでてきてるっちゅうところまで、なかなか見えないですよね。場を感じるということは、そういう場所に触れていく場所なんです。その場所はけっして抽象的なことじゃなくて、具体的な生活していることですから、人間のまじわりですよ。(九谷輪番十七組婦人連絡協議会2002年12月6日)
ニッパチも子ども食堂も、報恩講も場を感じ、場に育てられながら、緊張しながら、汗かき恥かき頭かきしながら、一生懸命頑張りたいと思います🙏



明日は、先月の御門徒さんからの問いについて。
蓮如上人の御文の八箇条について、
一 諸国参詣の輩のなかにおいて、在所をきらはず、いかなる大道・大路、また関屋・渡の船中にても、さらにそのはばかりなく仏法方の次第を顕露に人にかたること、しかるべからざる事。
どうして仏法を語ってはダメなのですか?と
それと、宿善無宿善について。
しっかり答えられるようになりました🙏😊多分😅
本来ならば、開教者会の報恩講ですから、開教者会の会員で立てなければなりませんが、ひたちなか市のお寺様が2日かけて立ててくださいました。
報恩講の花は立派ですね。有難う御座います🙏


