暑さ寒さも彼岸まで

「暑さ寒さも彼岸まで」
残暑と言うより、残残残暑と天気予報では表見されていましたが、酷暑もようやく一息ついた頃、秋のお彼岸を迎えようとしております。
彼岸という名は、仏教の原語ではパーラミタ、訳して到彼岸ということであり、此の岸から彼の岸にわたるということです。信なきものが法を聞いて信心の彼の岸へ到るということで、人間生活の「まこと」の生活を確かめる行事です。
まことの生活とは、「驚き、感動、発見」の生活です。

「この前ご門徒の家に行きまして、小さな三つの女の子と遊んでいましたら、下から僕の顔をつくづく見上げて、女の子がどう言ったか、「おじちゃんの鼻の中に草生えとる!」
私はこんな言葉を聞くと、とても感動するんです。何と皆さん、子どもの世界は新鮮な驚きがあるじゃありませんか。我々は、「鼻の中に生えている毛は鼻毛だ」という知識で覚えています。だから何の驚きもありません、知っていますから。しかし三つになる女の子にとって、草っていうのは田んぼや道路に生えているものが草だと思って、ふっと下から見上げてみたら、鼻の中に草が生えとった、その驚きです。我々にはもうないですね。「わかっている」「知っている」ということにおいて、どれだけ新鮮な驚きがないでしょうか。
しかし、この身を外さずして教えを聞けば、無限に驚きじゃないでしょうか。
驚きの容れ物じゃないでしょうか、この身は。「仏法をたしなみそうろうひとは、大様になれども、おどろきやすきなり」(「蓮如上人御一聞書」、「真宗聖典第二版』一〇三八)という言葉が蓮如上人にありますね。新鮮な驚きです。
私は、学生時代に正親含英先生の授業を受けても、本当にお粗末なことであったんですけど、ご縁とは不思議ですね。学校を出てから初めて先生にお会いすることができました。それはもう先生の最晩年でありましたけれども、私どものお寺にも、本当にもう亡くなられる何ヶ月か前に来ていただきました。私の忘れられない先生のお一人であります。その先生から書いていただいた書が今も私の部屋の中に大事に大事に掛けてあります。「泉古水新」という言葉なんですね。泉は古く水は新しい。これは信心に証された人間のいのちを言うんじゃないでしょうか。
光を蒙った時の人間のいのちは (泉は久遠の昔から湧き出ているんだけれども、そこから溢れ出る水は一瞬一瞬新しい) と同じように、如来さまから、仏さまから、真実の教えから、よきひとから光を蒙る、呼びかけを蒙って、そこから発起していく深い頷きは、あの泉から出る一瞬一瞬の水のようにいつも新しい。「これまで」ということはないんでしょうね。いよいよこれからなんでしょうね。そうだと思うんです。
私はもう五十を過ぎました。五十を過ぎると若い時に頼りとしていたこと、喜びとしていたこと、楽しみとしていたことが、だんだん間に合わなくなります、必然的に。それが老いるということでしょう。しかし、歳をとっても歳をとっても、いよいよはっきりしてくる喜びが一つあるんじゃありませんか。これは和田稠先生も仰ったんですけどね、「人間における誰もがいただいていける、たった一つの、人間の一番深い喜びは、この身が知らされるという喜びだ」と。本当にそうだと思いますね。
聞くということが喜びなんです。「なるほど、そうか」とこの身が感ずると、身体が返事をすると、このいのちが喜びだすんですね。そういういのちを身としているのが、私は人間だと思います。
法話CD「本願に生きた念仏者」⑤『光を蒙る』(東本願寺出版)より

お彼岸は人間生活の「まこと」の生活を確かめる行事です。
それは、「まこと」ではない者同士が、真実まことを確かめて行く生活なのです。
南無阿弥陀仏

佐賀枝夏文先生は「一つが全部になってしまう」ということを話されていた。一つの悪いことから自分のしてきたこと全部が否定されたと思う心理状態という事です。

法難を生涯受けた親鸞聖人は、「この法をば信じる人もあれば、謗る人もいると、仏はすでに教えてくださっている。だから私は信じるのだ」と仰っています。
そしてまた、「どうにもならなければ、そこでの縁が尽きたと思いなさい。命をかけるまでしなくていい」とも言われています。

南無阿弥陀仏

上宮寺

上宮寺は、聖徳太子により、当初奈良において法相宗の寺として開かれたと伝えられ、わが国への仏教伝来以来の1500年近くの歴史を持っております。その後天台宗となり三河の地に移り、この地で盛んになる聖徳太子信仰の中心となっていきます。

鎌倉時代に、浄土真宗の開祖であり、聖徳太子を深く敬っていた親鸞聖人は、20年間滞在した関東から京都に帰る途中、三河の地にしばらく留まります。親鸞聖人の説く念仏の教えに触れ、この地では、これ以降浄土真宗が盛んになり、上宮寺は浄土真宗の中でも最も古い信者(門徒)集団の一つである三河門徒の中心寺院として栄えていきます。そして、上宮寺は全国に100寺以上の支院を有し、京都の本山につぐ、中本山といわれるようになっていく訳です。

江戸時代になり、三河から江戸に出て来た方々から、その上宮寺の本尊をぜひ江戸でもご開帳してほしいという声に応えて、その本尊をご開帳する寺として当寺は建立されました。本尊はやがて上宮寺に戻ることになる訳ですが、代わりに当寺の本尊として上宮寺より移した阿弥陀如来の立像は、800年前の鎌倉時代の作と言われ、新宿区の文化財となっております。また、上宮寺の本尊を戻す際に発見された胎仏である聖徳太子の像も当寺に保存されております。
残念ながら、上宮寺は1988年(昭和63年)に火災で伽藍、本尊とも焼失してしまいますが、現在では立派に再建されております。(龍善寺HPより)

阿弥陀さん

「どうして立ってるの?」

と、問いかけられた。

「あらゆる批判の嵐の中で、泰然自若として立つ。その揺るぎない姿にこそ、人は磁石のように惹きつけられていくのだ。」(田中角栄)

この言葉が思い起こされました。

泰然自若とは、何事にも動じず落ち着いた様子のこと。「泰然」は落ち着いた状態を指す言葉で、その人の態度や姿勢に対して使われる。「自若」は慌てない様子を指し、特に何かトラブルが起こっても慌てないさまに対して使われる。

ひとたび問題が起こると、慌てふためいて、落ち着かない自分がいるからこそ、阿弥陀様は大丈夫だよと安心して苦労していける道を教えてくださってるのだと思います🙏

自分らしく

人を動かすのは、権力や正論ではない。
どんな相手にもスッと懐に入り込み、気づけば人の輪の中心にいる。
「対等」と言う哲学を解き明かす。

新潟越後の雪深い田舎から、泥水すすって学んだ、ごく当たり前の人間学だ。
いくら頭が切れようが、唸るほど金を持っていようが、人から好かれなきゃ、人生空っぽのまま終わっちまう。
世の中ってのは、人と人との繋がり、その一点に尽きるんだ。
目の前の相手の心をどう温めるか。
どうやってその懐に飛び込み、本物の信頼を勝ち取るか。それが、全てを決める。
理屈じゃねぇ、腹の底から湧き出る「誠実さ」の問題なんだ。
偉そうにするな。見下すな。
誰の上にも全く同じように、白く降り積もる雪のように。
人間も本来これと同じでなきゃいかんのだ。
生まれた場所がどうだ。学歴がどうだなんて、人間そのものの価値とは何も関係もない。
相手が誰であろうと態度を変えず、肩書きや地位という、色眼鏡で見下すような人間に、そもそも誰が心を預けるだろうか。
人との信頼関係は、「対等」という土台なくしては築けない。
「人間はみな平等」
この当たり前の言葉が、腹にストンと落ちた時、初めて見えてくる景色がある。
それは、「寛容さ」、言い換えれば「度量の大きさ」という境地だ。
政治家という稼業は毎日が批判の嵐。
朝刊を開けば、根も葉もない噂を書きたてられ、声を張り上げれば心ないヤジが容赦なく飛んでくる。
事件の後なんかは、まるで日本中の人間から背中に石を投げつけられているような心地だった。だか、そんなものにいちいち心を擦り減らしていて、いったい何が出来ると言うのか。
「ああ、また何か言ってるなあ」
と、遠くで雷が鳴っているように受け流す。
そのくらいの器がなければ、大事業など到底成し遂げられない。
些細なことで、ネチネチと心を悩ませる男を、誰が、「器が大きいと認めるだろう」
一度腹を立てて相手と溝を作ってしまえば、後々まで気まずい空気が続くだけだ。
たとえ馬鹿にされても、「はっはっは」と笑い飛ばせるか。
その圧倒的な度量を見せつける事で、かえって周りは、「この男はただ物じゃない」と、お前の人間の大きさを認め始める。
あらゆる批判の嵐の中で、泰然自若として立つ。その揺るぎない姿にこそ、人は磁石のように惹きつけられていくのだ。
賢い人ほど、なぜか「少し抜けている」ように
振る舞う。その理由を考えたことがあるだろうか。人は誰しも、自分を実際より大きく見せたいと見栄と戦っている。
会議でつい難しい言葉を並べてみたり、知ったかぶりで話しを合わせたり。
だが、そんな息苦しい背伸びは、不思議と相手に見透かされてしまうものだ。
本当に人を掴むのは、完璧な理論武装ではない。むしろ、ありのままを晒し、時には少し足りないくらいに見せる「懐の深さ」なのだ。
少し隙があったり、おっちょこちょいな一面があったりする人には、なぜか安心して心を開ける。
だから、つまらないプライドは捨ててしまえ。
相手が気持ちよく、語れるように聞き役に徹する。知らないことは、「なるほど、勉強になります」と、素直に頭を下げる。
その、謙虚な「配慮」が見えない信頼を育むのだ。そして、いざという正念場で、あなたが隠し持っていた本当の実力を見せたとき、周囲の眼差しは驚きと尊敬に変わるだろう。
これこそが、目先の見栄よりも大きな、「実」を取るための、真の処世術なのだ。(田中角栄)

自分らしく生きて行こうと思います。

シェアキッチン

今日は月2回のシェアキッチン♪
腸活ランチプレートをいただきました😌✨
僕もいちお客さんとして、他のお客さんとの楽しい会話に花が咲き、シェフも気さくで癒し系ですので、ぜひ一度お越しください😌✨お待ちしております☺️

合宿

今日のお参り先に偶然あった。
明日から楽の合宿研修。頑張らなきゃ🙏😉💦