斜里岳を見ていると、
「変わらないものがある」
と思う。
けれど本当は、
山は毎日少しずつ姿を変え、
人の心もまた、
見えないところで揺れている。
清里の御門徒さん。
たまに、
ふと思い出した頃に連絡をくださる。
「元気ですか?」
その一言だけなのに、
不思議なくらい、
心がほどける時があります。
人は、
“忘れないでいてくれる人”に
支えられて生きているのかもしれません。
案じてくれる人がいる。
心配してくれる人がいる。
それだけで、
また少し頑張ろうと思える。
有難いことです🙏

住職の独り言ささやきです。親鸞聖人は小さなつぶやきやささやきに耳を傾けて人々の言葉を聞き逃さなかった方だと思います。
斜里岳を見ていると、
「変わらないものがある」
と思う。
けれど本当は、
山は毎日少しずつ姿を変え、
人の心もまた、
見えないところで揺れている。
清里の御門徒さん。
たまに、
ふと思い出した頃に連絡をくださる。
「元気ですか?」
その一言だけなのに、
不思議なくらい、
心がほどける時があります。
人は、
“忘れないでいてくれる人”に
支えられて生きているのかもしれません。
案じてくれる人がいる。
心配してくれる人がいる。
それだけで、
また少し頑張ろうと思える。
有難いことです🙏

ご近所さんから、たくあんをいただきました😊
しかも今日は、坊守の「得度記念日」。
……これはもう、完全に“祝いの一本”ですな😄
立派な言葉より、
こういう「漬物ひとつ」の方が、嬉しかったりします。
得度して2年。
派手なことはなくても、
「今日はどうしてるかな」って思い出してくれる人がいる。
それだけで、十分ありがたいことですね🙏


今日は坊守が得度して、ちょうど丸2年の日🙏
ということは――お坊さん3年目ということですね💡
と、いうことはわたくは何年目だろう…
この2年、見えないところで、たくさん悩み、たくさん気を遣い、たくさん傷つきながら、
それでも、手を合わせ続けてきたのは、
「立派な人」になるためではなく、
人の悲しみや苦しみによりそい、自分の心が開かれていくため。
強くなるより先に、痛みを知ることの方が多い。
「自分のあり方に痛みを感じるときに人の痛みに心が開かれる」
⸻
女性僧侶だからこそ向けられる視線も、きっと色々あったと思います。
それでも、子ども食堂でも、お参りでも、日々の何気ない会話でも、
坊守の柔らかさに、救われている人は、実はたくさんいると思います😊
3年目も、どうか無理しすぎず。
「ちゃんとしてるお坊さん」じゃなく、
「一緒に悩めるお坊さん」になってくださいな🙏



福島のお土産🍅
「水耕ハウス × 完熟朝採り × えがおトマト」
新聞紙バッグ。
オシャレなのかエコなのか、サステナブルなのか、昭和なのか、もう分からないけど好き👍
実は、
トマトジュースは飲めるのに、
トマトは苦手だった時期がありました。
小学生の頃、
庭のミニトマトを限界突破まで食べたせい。
たぶんあの時、
人生で必要なトマト、全部食べました😇
そして、あの青臭さが、完全にトラウマ。
でも今は大人なので大丈夫。
ちゃんと食べられます👍
「トマトが赤くなると、医者が青くなる」
トマト食べすぎると、自分が青くなる😊
…で、今目の前にあるこのトマト。
まだ食べてませんがたぶん美味い。
名前が“えがお”ですからね‼️


今日は、子どもの日。
⸻
娘は十勝ヒルズで、
春の中にいる。
⸻
父は高速で、
渋滞の中にいる。
⸻
同じ空の下なのに、
少しだけ遠い。





シンポジウム クマから問われる

ん〜切りすぎたかな?🤔
ま、こんなもんか😄
ちなみに、芝桜は壊滅的な状態になってしまいました😹



植えて1年8ヶ月になったマツ🌲
剪定が難しい😹
“車枝(くるまえだ)気味”になってる箇所があって、昨日ご近所の植木屋さんから教えてもらったんですが、基本1か所(節)から4本以上出すのはNG(基本は2本まで) なんですね💡
理由はシンプルで
なので、今時期の「みどり摘み」で長さ調整、11月頃の「もみあげ」で、古い葉を取り下の枝に日を差し込みやすくする。
今は、 車枝(4本以上) → 2本に減らす
✔ 上に伸びる枝 → 整理
✔ 内向き・下向き → カット
✔ 芯は必ず残す
って言われても難しい😹


教行信証の総序の捨穢欣浄(しゃえごんじょう)。穢を捨て浄を欣う。それが総序にあるという事は、総じていえば、そういう思いが人間の生活の上に起きてきたら必ず、穢を捨て浄を欣うということがあると。つまり、生きる事が嫌になったなあという思いは、この身を生きることが喜べないし、楽しめない、いきいきしてこないという問題を捨穢欣浄。総ということは普通ということ。普通ということは、普くどんな人にもそういう思いが通じていくということを総という。つまり、どんな人にも通じていく、誰もが持っているそういう宗教心、そういう現実逃避の思いを表した時に、捨穢欣浄という表現をされた。総は、普くですからいつの時代にでも誰にでも起こってくる心ということです。その時その時の気分でも、生活そのものがなんとなくこのままでいいのかなと。いきいき出来ないというものを抱えて生きているということが、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)です。
そして、それに対して教行信証の別序では、欣浄厭穢となっています。総序の捨てるに対して、別序は厭うになっている。
これはこれからではなくて今、生きているという今の問題です。厭うという意味は、抑えるとか、覆うという意味があります。穢域ということは穢士ですから、世間のことです。世間から押しつぶされそうになっている、抑えられて、覆われている世を世として、見出すことのできた、かなしさとか、辛さ、そういう心が厭う。それが、別序に出てくるということは、別というのは特別という意味ではなくて、独自ということ。私一人においてということ。教行信証の別序でいえば、親鸞聖人においてということだと。総はすべての人ということで、別は自分においてということだと。
世にあってこの身を生きているその私一人においてはどういうことかといったら、浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類というふうにおさえられています。つまり、浄邦を欣う徒衆、徒衆という私一人において確認することができたということ。つまり、普通の世間一般的な宗教心、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)という心よりももっと深い宗教心という欣浄厭穢(ごんじょうえんね)という心があるんだと。世のなか生きるのがしんどいとか、どっか別に楽しい場所はないかなと言っている思いの底に浄土を厭うという事を通して、穢域を捨てるのではなくて厭うという事があるんだと。それが私一人において確認されたということが別だと。
生活そのものがなんとなくこのままでいいのかなという思い。そして、そういう生活はいきいき出来ないというものを抱えて生きているということが、捨穢欣浄(しゃえごんじよう)であるということは、総序で言えば、いつの時代にでも誰にでも起こってくるそういう思いはあるけれども、世を生きているということが、どっかで気になったという心、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)という心からまず出発する。
観経で言えばイダイケの愚痴です。その場面を厭苦縁と言います。イダイケが愚痴を言う場面です。そして、そういう思い愚痴を超えて、娑婆を捨ててどっか別な場所を願うのではなくて、別序で言えば、欣浄厭穢(ごんじょうえんね)。観経で言えば、欣浄縁です。阿弥陀仏のみもとに生れたいと願う場面です。穢土を捨てるのではなくて、厭うんだと。念仏申す人々は世を厭うんだと。
捨てるのではないと。世から逃げ出すのではない。つまり、世を穢域として厭う。捨てるというのは気分の問題で厭うということは浄土から見出されたはたらきを浄邦ということです。南無阿弥陀仏