ちぎり絵

昔、別院の御門徒さんからいただいた、
和紙のちぎり絵。

大切にしすぎて、
ずっとしまい込んでいました。

久しぶりに出してみたら──
なんだか、沁みる。素晴らしい

(当時はまだ若くて、
この良さがよく分かっていなかったのかもしれません💦)

あの頃の空気ごと、
そのまま残っているような気がします。

手に取ると、
作品だけでなく、
その方とのご縁や時間までもが、
静かに立ち上がってくる。

毎回、別院の法話会に足繁く通われていた、
とても熱心な聞法者でした🙏

ご縁は、なくなったのではなく、
ただ見えなくなっていただけ。

こうしてまた、出会い直す。

多摩親鸞講座

お坊さんって、何してるの?

そう聞かれたら、

「勉強してるよ」
って答えるかもしれません。

ギターばかり弾いてるわけではありません😄

多摩親鸞講座にも通っています。

今月は行けなかったけど、
来月は絶対行きます。

海先生の最後の講座だから。

正直に言うと、
「答えを教えてもらう」ためというより、

自分の中にある問いに
気づかされに行っている気がします。

一人で学ぶより、
坊守と一緒に。

できれば、
御門徒さんとも一緒に。

自分だけの学びではなく、
“共に”ということを大切にしたい。

そしてまた、
その問いを掲示板に貼ります。

「お坊さんって何してるの?」

答えは、まだ途中です🙏

来月、
先生に『東京断章』書いていただくのも楽しみです。

電話

ふ〜😮‍💨

電話機、壊れました。

しかも膨らんでて、ちょっと怖いやつでした😹

ユーセンの方が新品を持ってきてくださって、ひとまず復旧🙏
本当に助かりました。

でも、今回改めて思ったんです。

電話って、
鳴らなければただの箱なんだなって。

どれだけ整えても、
かけてくださる人がいて、はじめて“ご縁”になる。

お寺も同じですね。

必要とされて、呼ばれて、
はじめてお寺になる。

なので、

用事がなくてもいいので、
ちょっと思い出したら、電話ください📞😄

ちゃんと出ます🙏

芝桜

650円で芝桜買いました🌸

東藻琴のような景色にはほど遠いですが、
小さな花壇から、少しずつ。

一株一株が、やがて広がっていくように、
ご縁もまた、広がっていきますように🙏😌

竹の子

ご近所さんから、朝採れの竹の子をいただきました🙏

去年は出なかった竹の子が、今年はドーン😄

地下でコツコツ準備してたんですね🙏

見えない努力、大事😏✨

ご馳走さまでした🙏😄

お勤め

あまり最近は言われなくなったけど、

『丁寧ですね』
『綺麗な声ですね』

そう声をかけていただきました🙏

その一言に、
また育てられている気がします。

そして一番響いているのは、
たぶんこの私です🙏

ツツジ

ツツジの美しさに目を向けたいところですが、
花粉症で目は痒く…😹
それでも今日も、目の前のご縁を大切に丁寧に🙏

剪定

ご近所さんが、ご近所さんのお庭の剪定をしている。
そんな何気ない光景に、ふと心が和みました。

特別なことではないけれど、
こうして自然に手を貸し合う姿に、
大切なものがあるように感じます。

剪定した枝を見ていたら、
「しきみに似てるから、いつでも使っていいよ」と。

人の手から人へと渡るものの中に、
あたたかい気持ちも一緒に添えられているようでした。

こういうご縁に支えられて、
日々が成り立っているのだなと感じます🙏😌

アインシュタイン

アルベルト・アインシュタインに、こんなお話が伝わっています。

教室で黒板にかけ算を書いていきました。

ほとんどは正しく書かれていましたが、
最後の一つだけ、わざと間違えたのです。

すると生徒たちは、その一つの間違いを見て笑いました。

そのとき彼はこう言います。

「私は9つ正しく書いた。
しかし誰もそこを見なかった。
ただ1つの間違いだけを見た。

これが社会だ。」

この言葉は、他人のことだけではなく、
実は「私自身の姿」をも照らしているのではないでしょうか。

私たちは、人の間違いにはすぐ気づきます。
しかし、その人が積み重ねてきた歩みや努力には、なかなか目が向きません。

それは同時に、
自分自身に対しても同じではないでしょうか。

できていないことばかりを見て、
できていることを認めることができない。

仏教では、私たちを「煩悩具足の凡夫」といただきます。

つまり、間違いをなくすことのできない存在だということです。

だからこそ、

「間違わないように生きる」のではなく、
「間違いの中で問われながら生きる」

そのような生き方が開かれているのではないでしょうか。

「間違いはプロセスの一つである。
何もしない人だけが、間違いをしない。」

この言葉を聞くとき、

私はこういただいています。

「動きなさい」ということではなく、
すでにご縁の中で「動かされている身である」ということ。

私自身、開教所を開くとき、
大きな不安がありました。

それでも一歩踏み出したのは、
自分の力というよりも、
ご縁によって動かされてきたのだと感じています。

その中で、法話会や子ども食堂、坊主バーという形で、
さまざまなご縁をいただいてきました。

うまくいかなかったこともたくさんありますし、
今もなお手探りの中にあります。

しかし、その一つ一つが、
「私とは何か」を教えられる出来事でもありました。

「今さら」ではなく「今から」でもなく、

「今、この私が問われている」

そのように受け取ることもできるのではないでしょうか。

これからの歩みの中で、
これまでの自分の姿が、あらためて見えてくるのかもしれません。

誰かの間違いを笑うのではなく、
その歩みを共に受け止めることができる私でありたい。

そして、自分自身もまた、
間違いの中で問われ続ける身として、生きていきたい。

そのように思わされるお話であります。

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」
―『蓮如上人御一代記聞書』

昭和法要式が破れて、どれくらい経ったでしょうか。
ここ数ヶ月のことです。

本尊も今は掛けるものではなく、置く形になりました。
「掛けやぶれ」という言葉も、どこか遠く感じる時代です。

けれど、
本当に“破れている”のは、何なのでしょうか。

形なのか。
それとも、私の受け取り方なのか。

ふと外を見ると、
大きな木が、新緑を広げていました。

「この木なんの木、気になる木」なんて思いながら眺めていると、
その胸元には、小さないのちがひとつ。

どこからやって来たのだろう。

どちらも、同じように生きている。

小さないのちも、
大きな木も、
そして、この私も。

ちっぽけな人間だからこそ、
大きなものに心を動かされ、
小さなものに気づかされるのかもしれません。

「よみやぶる」とは、
ただ読んで破ることではなく、
自分の思い込みが破られていくこと。

今日もまた、
少しだけ、やぶられていきたいと思います。