終了者研修会へ参加して2週間が経ちました。
果たして、
私はいったい何を終了したのか。何も終了してないのではないか。
まだ、何も始まってもいないのではないかと。いつから、何が始まったのか。無始以来、常に流転し出離の縁がない煩悩具足の凡夫は始まっております。
そして、研修会に参加して違和感を感じた事がありました。
それは、研修会は楽しいと口にされている。今日を楽しみに来たと。明日も楽しみにしてると。
僕は楽しい研修会なんかあるのかなと思います。宮城先生は、師は眠らせない存在。友は酔わせない存在と言われます。
今まで、泣く泣く教えを聴いて来ました。それは、楽しんで聴いてきたわけではありません。
うちのお寺では、毎月法話会、子ども食堂、坊主バーをやっております。
先月の28日のお朝事の御文はたまたま一条八通でした。
吉崎へ来て3年が経ち、人が大勢集まるようになった。
しかし蓮如上人は、
「念仏の信心を決定し、往生を願わない者はここへ来る必要はない。今後は入場を許さない」
と、その御文には書いてありました。
北海道から出てきて8年。
八王子へ移転して3年。
法話会に、
「来てくださるだけで有難い」
入場規制など、とても考えられません。
しかし、よくよく考えてみると、
自分の話を聞いてほしい。
自分を認めてほしい。
自分の自慢話をしたい。
そういう思いでお寺へ来ている御門徒さんもおり、法話最中に話し出す方もいて、法話が中断する事もあります。注意すると来てくれなくなるのではないか。それは、門徒さんをお客さんとして見ているのではないか。
しかし、
何より私自身もお寺を利用して、自分を認めてもらいたいと思っている。
そんなことを考えさせられました。
「誰のためのお寺なのか」
「何のための法話会なのか」
今回の研修会で、改めて問い返されたように思います。
果たして、師は酔わせない、友は眠らせない研修会や、お寺になっているのか。
今の時代、そのような場は敬遠されるのかもしれません。しかし、だからこそ、師は眠らせず、友は酔わせない場でありたいと願います。































