3年生

今日は坊守が得度して、ちょうど丸2年の日🙏

ということは――お坊さん3年目ということですね💡

と、いうことはわたくは何年目だろう…

この2年、見えないところで、たくさん悩み、たくさん気を遣い、たくさん傷つきながら、

それでも、手を合わせ続けてきたのは、

「立派な人」になるためではなく、

人の悲しみや苦しみによりそい、自分の心が開かれていくため。

強くなるより先に、痛みを知ることの方が多い。

「自分のあり方に痛みを感じるときに人の痛みに心が開かれる」

女性僧侶だからこそ向けられる視線も、きっと色々あったと思います。

それでも、子ども食堂でも、お参りでも、日々の何気ない会話でも、

坊守の柔らかさに、救われている人は、実はたくさんいると思います😊

3年目も、どうか無理しすぎず。

「ちゃんとしてるお坊さん」じゃなく、

「一緒に悩めるお坊さん」になってくださいな🙏

トマト🍅

福島のお土産🍅

「水耕ハウス × 完熟朝採り × えがおトマト」

新聞紙バッグ。
オシャレなのかエコなのか、サステナブルなのか、昭和なのか、もう分からないけど好き👍

実は、
トマトジュースは飲めるのに、
トマトは苦手だった時期がありました。

小学生の頃、
庭のミニトマトを限界突破まで食べたせい。

たぶんあの時、
人生で必要なトマト、全部食べました😇

そして、あの青臭さが、完全にトラウマ。

でも今は大人なので大丈夫。

ちゃんと食べられます👍

「トマトが赤くなると、医者が青くなる」

トマト食べすぎると、自分が青くなる😊

…で、今目の前にあるこのトマト。

まだ食べてませんがたぶん美味い。

名前が“えがお”ですからね‼️

渋滞

今日は、子どもの日。

娘は十勝ヒルズで、
春の中にいる。

父は高速で、
渋滞の中にいる。

同じ空の下なのに、
少しだけ遠い。

剪定2

ん〜切りすぎたかな?🤔

ま、こんなもんか😄

ちなみに、芝桜は壊滅的な状態になってしまいました😹

剪定

植えて1年8ヶ月になったマツ🌲

剪定が難しい😹

“車枝(くるまえだ)気味”になってる箇所があって、昨日ご近所の植木屋さんから教えてもらったんですが、基本1か所(節)から4本以上出すのはNG(基本は2本まで) なんですね💡

理由はシンプルで

  • 養分の取り合いになる
  • 枝が密集して風通しが悪くなる
  • 見た目がゴチャっとして“松らしさ”が消える
  • 将来、弱い枝が枯れやすい

なので、今時期の「みどり摘み」で長さ調整、11月頃の「もみあげ」で、古い葉を取り下の枝に日を差し込みやすくする。

今は、 車枝(4本以上) → 2本に減らす
✔ 上に伸びる枝 → 整理
✔ 内向き・下向き → カット
✔ 芯は必ず残す

って言われても難しい😹

捨穢欣浄と欣浄厭穢

教行信証の総序の捨穢欣浄(しゃえごんじょう)。穢を捨て浄を欣う。それが総序にあるという事は、総じていえば、そういう思いが人間の生活の上に起きてきたら必ず、穢を捨て浄を欣うということがあると。つまり、生きる事が嫌になったなあという思いは、この身を生きることが喜べないし、楽しめない、いきいきしてこないという問題を捨穢欣浄。総ということは普通ということ。普通ということは、普くどんな人にもそういう思いが通じていくということを総という。つまり、どんな人にも通じていく、誰もが持っているそういう宗教心、そういう現実逃避の思いを表した時に、捨穢欣浄という表現をされた。総は、普くですからいつの時代にでも誰にでも起こってくる心ということです。その時その時の気分でも、生活そのものがなんとなくこのままでいいのかなと。いきいき出来ないというものを抱えて生きているということが、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)です。
そして、それに対して教行信証の別序では、欣浄厭穢となっています。総序の捨てるに対して、別序は厭うになっている。
これはこれからではなくて今、生きているという今の問題です。厭うという意味は、抑えるとか、覆うという意味があります。穢域ということは穢士ですから、世間のことです。世間から押しつぶされそうになっている、抑えられて、覆われている世を世として、見出すことのできた、かなしさとか、辛さ、そういう心が厭う。それが、別序に出てくるということは、別というのは特別という意味ではなくて、独自ということ。私一人においてということ。教行信証の別序でいえば、親鸞聖人においてということだと。総はすべての人ということで、別は自分においてということだと。
世にあってこの身を生きているその私一人においてはどういうことかといったら、浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類というふうにおさえられています。つまり、浄邦を欣う徒衆、徒衆という私一人において確認することができたということ。つまり、普通の世間一般的な宗教心、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)という心よりももっと深い宗教心という欣浄厭穢(ごんじょうえんね)という心があるんだと。世のなか生きるのがしんどいとか、どっか別に楽しい場所はないかなと言っている思いの底に浄土を厭うという事を通して、穢域を捨てるのではなくて厭うという事があるんだと。それが私一人において確認されたということが別だと。
生活そのものがなんとなくこのままでいいのかなという思い。そして、そういう生活はいきいき出来ないというものを抱えて生きているということが、捨穢欣浄(しゃえごんじよう)であるということは、総序で言えば、いつの時代にでも誰にでも起こってくるそういう思いはあるけれども、世を生きているということが、どっかで気になったという心、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)という心からまず出発する。
観経で言えばイダイケの愚痴です。その場面を厭苦縁と言います。イダイケが愚痴を言う場面です。そして、そういう思い愚痴を超えて、娑婆を捨ててどっか別な場所を願うのではなくて、別序で言えば、欣浄厭穢(ごんじょうえんね)。観経で言えば、欣浄縁です。阿弥陀仏のみもとに生れたいと願う場面です。穢土を捨てるのではなくて、厭うんだと。念仏申す人々は世を厭うんだと。
捨てるのではないと。世から逃げ出すのではない。つまり、世を穢域として厭う。捨てるというのは気分の問題で厭うということは浄土から見出されたはたらきを浄邦ということです。南無阿弥陀仏

ゆるキャラ

小さな寺子屋〜ひよこ〜のロゴとゆるキャラのニッパチくん。かれこれ、誕生してから約半年。あまり日の目を見る機会がないので、ちょいちょい出して行こうと思います。

不安に立つ

安田先生は、

「本願の智慧が“不安”という形で人間に来ているんです。不安が如来なんですわ」

とおっしゃっています。

その言葉を読んだとき、まさに自分自身のことを語られているように感じました。

坊さんをやめることもできない。

かといって、坊さんとしての自信があるわけでもない。

このまま続けていけるのか。

将来どうなるのか。

そんな不安の中に立っている自分がいます。

宗祖親鸞聖人に向き合うということは、

不安を消して強くなることではなく、

不安に立って歩まれた宗祖の姿に、

自分の生きる姿勢を学ぶことなのだと思います。

宗祖に会うとは、

自分に会うということ。

今、私はどういう在り方をしているのか。

どういう生き方をしているのか。

そこに目を覚まさせるはたらきが、

願であり、仏である。

だから、仏教は結果を問わない。今が全てで結果であるから。

今、この身をどう生きているのか。

その事実に目を覚ましていく教えなのだと思います。

命が文句を言っているわけではない。

心臓が文句を言っているわけでもない。

それなのに私は、

与えられている事実に気づかず、

足りないものばかりを見て、

不安を悪いものとして遠ざけようとしている。

けれど、

その不安こそが、

私を呼び覚まそうとしているのかもしれません。

不安が如来なんですわ。

この言葉の前に、

今日もまた立たされています。