剪定2

ん〜切りすぎたかな?🤔

ま、こんなもんか😄

ちなみに、芝桜は壊滅的な状態になってしまいました😹

剪定

植えて1年8ヶ月になったマツ🌲

剪定が難しい😹

“車枝(くるまえだ)気味”になってる箇所があって、昨日ご近所の植木屋さんから教えてもらったんですが、基本1か所(節)から4本以上出すのはNG(基本は2本まで) なんですね💡

理由はシンプルで

  • 養分の取り合いになる
  • 枝が密集して風通しが悪くなる
  • 見た目がゴチャっとして“松らしさ”が消える
  • 将来、弱い枝が枯れやすい

なので、今時期の「みどり摘み」で長さ調整、11月頃の「もみあげ」で、古い葉を取り下の枝に日を差し込みやすくする。

今は、 車枝(4本以上) → 2本に減らす
✔ 上に伸びる枝 → 整理
✔ 内向き・下向き → カット
✔ 芯は必ず残す

って言われても難しい😹

捨穢欣浄と欣浄厭穢

教行信証の総序の捨穢欣浄(しゃえごんじょう)。穢を捨て浄を欣う。それが総序にあるという事は、総じていえば、そういう思いが人間の生活の上に起きてきたら必ず、穢を捨て浄を欣うということがあると。つまり、生きる事が嫌になったなあという思いは、この身を生きることが喜べないし、楽しめない、いきいきしてこないという問題を捨穢欣浄。総ということは普通ということ。普通ということは、普くどんな人にもそういう思いが通じていくということを総という。つまり、どんな人にも通じていく、誰もが持っているそういう宗教心、そういう現実逃避の思いを表した時に、捨穢欣浄という表現をされた。総は、普くですからいつの時代にでも誰にでも起こってくる心ということです。その時その時の気分でも、生活そのものがなんとなくこのままでいいのかなと。いきいき出来ないというものを抱えて生きているということが、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)です。
そして、それに対して教行信証の別序では、欣浄厭穢となっています。総序の捨てるに対して、別序は厭うになっている。
これはこれからではなくて今、生きているという今の問題です。厭うという意味は、抑えるとか、覆うという意味があります。穢域ということは穢士ですから、世間のことです。世間から押しつぶされそうになっている、抑えられて、覆われている世を世として、見出すことのできた、かなしさとか、辛さ、そういう心が厭う。それが、別序に出てくるということは、別というのは特別という意味ではなくて、独自ということ。私一人においてということ。教行信証の別序でいえば、親鸞聖人においてということだと。総はすべての人ということで、別は自分においてということだと。
世にあってこの身を生きているその私一人においてはどういうことかといったら、浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類というふうにおさえられています。つまり、浄邦を欣う徒衆、徒衆という私一人において確認することができたということ。つまり、普通の世間一般的な宗教心、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)という心よりももっと深い宗教心という欣浄厭穢(ごんじょうえんね)という心があるんだと。世のなか生きるのがしんどいとか、どっか別に楽しい場所はないかなと言っている思いの底に浄土を厭うという事を通して、穢域を捨てるのではなくて厭うという事があるんだと。それが私一人において確認されたということが別だと。
生活そのものがなんとなくこのままでいいのかなという思い。そして、そういう生活はいきいき出来ないというものを抱えて生きているということが、捨穢欣浄(しゃえごんじよう)であるということは、総序で言えば、いつの時代にでも誰にでも起こってくるそういう思いはあるけれども、世を生きているということが、どっかで気になったという心、捨穢欣浄(しゃえごんじょう)という心からまず出発する。
観経で言えばイダイケの愚痴です。その場面を厭苦縁と言います。イダイケが愚痴を言う場面です。そして、そういう思い愚痴を超えて、娑婆を捨ててどっか別な場所を願うのではなくて、別序で言えば、欣浄厭穢(ごんじょうえんね)。観経で言えば、欣浄縁です。阿弥陀仏のみもとに生れたいと願う場面です。穢土を捨てるのではなくて、厭うんだと。念仏申す人々は世を厭うんだと。
捨てるのではないと。世から逃げ出すのではない。つまり、世を穢域として厭う。捨てるというのは気分の問題で厭うということは浄土から見出されたはたらきを浄邦ということです。南無阿弥陀仏

ゆるキャラ

小さな寺子屋〜ひよこ〜のロゴとゆるキャラのニッパチくん。かれこれ、誕生してから約半年。あまり日の目を見る機会がないので、ちょいちょい出して行こうと思います。

不安に立つ

安田先生は、

「本願の智慧が“不安”という形で人間に来ているんです。不安が如来なんですわ」

とおっしゃっています。

その言葉を読んだとき、まさに自分自身のことを語られているように感じました。

坊さんをやめることもできない。

かといって、坊さんとしての自信があるわけでもない。

このまま続けていけるのか。

将来どうなるのか。

そんな不安の中に立っている自分がいます。

宗祖親鸞聖人に向き合うということは、

不安を消して強くなることではなく、

不安に立って歩まれた宗祖の姿に、

自分の生きる姿勢を学ぶことなのだと思います。

宗祖に会うとは、

自分に会うということ。

今、私はどういう在り方をしているのか。

どういう生き方をしているのか。

そこに目を覚まさせるはたらきが、

願であり、仏である。

だから、仏教は結果を問わない。今が全てで結果であるから。

今、この身をどう生きているのか。

その事実に目を覚ましていく教えなのだと思います。

命が文句を言っているわけではない。

心臓が文句を言っているわけでもない。

それなのに私は、

与えられている事実に気づかず、

足りないものばかりを見て、

不安を悪いものとして遠ざけようとしている。

けれど、

その不安こそが、

私を呼び覚まそうとしているのかもしれません。

不安が如来なんですわ。

この言葉の前に、

今日もまた立たされています。

何で死ぬのだろう

検視の結果CTから心タンポナーゼだったと…

自◯ではなく良かった…

だからこそ、

「だったらなおさら、どうして…」

「普通に戻ってくるはずだったのに」

という思いが強くなる…

「なんで人って死ぬんだろうね――」。父親を亡くした友人が私に問いかけてきました。突然のことで言葉に詰まってしまい、しばらくのあいだ沈黙が続きました。仏教を学んでいる私であれば、何か答えてくれるかもしれない。友人はそう思ったのかもしれません。しかし、友人が期待していたようには答えることができませんでした。
生まれてきたものは死んでいかなければならない。そのことは知識としては知っています。しかし、いざ悲しみのなかにいる友人から「なぜ人は死ぬのか」と問われて、生まれてきたからだと返答することは、知識を答えるものであっても、友人の問いを満足させる答えではありません。二人の間にある沈黙だけが、その問いの答えを知っているかのようでした。
ときに人は、問うてみても答えようのないことを問わずにおれないときがあります。とりわけ愛する人との別れは、頭でわかっていても「なぜなんだ」と、その死を問わずにはおれません。私たちは人間である以上、必ずこの別れの悲しみに立ち尽くさざるを得ないのでしょう。人間には、どのような知識をもってしてでも間に合わないことがあります。
人間であるがゆえに避けることのできない悲しみを誰しもが持つ。それは〈人間であることの悲しみ〉と言えます。別離による〈人間の悲しみ〉の底には、〈人間であることの悲しみ〉が流れています。
阿弥陀仏の大悲は、人間であるがゆえに誰もが持たざるを得ない悲しみのうえにかけられているものです。私たちは、日々の生活の中で、自分の思いではどうしてみようもない悲しみややるせなさを抱えて、ときにそれを隠したり押さえつけたりして生きています。しかし、その人知れず流す悲しみの涙に、静かな眼差しを向けている大悲の心があります。それは人間であることの悲しみを知り、その悲しみを共にしようとする仏の心です。私たちの悲しみや涙は、仏の大いなる悲しみに出遇う場でもあります。
人は何に救われるのか。「がんばりなよ」の励ましの言葉もありがたいけれども、それは流れる涙を乾かしていかなければなりません。しかし乾ききらない涙があることも、また事実です。かえってその涙の悲しみを知り、共感共苦しようとする心に触れることによって、この涙は居場所を得ていくものではないでしょうか。
友人が悲しみのなかから発した「なぜ人は死ぬのか」との問いかけは、いまなお、人間であることの悲しみをもつ私であることを知らされ、そして乾くことのない涙の居場所を教えてくれています。
 
藤井 眞翔(ふじい・まこと)長崎県/西光寺

小浜へ

今年は、みんなで本山へお参り行って、小浜へ行こうと計画しております🙏😌✨楽しみです

サバ缶、宇宙へ行く

昨日、お姉さんからいただいたサバ缶。

正直、もったいなくて開けられない。

このサバ缶は、
福井・小浜の高校生たちが
15年という歳月をかけて開発した「宇宙鯖缶」。

実際に宇宙食として認証され、
その味を、私たちが地上でいただける。

しかもこれは、
坊守のお祖父さんが立ち上げた水産会社のもの。

ただの缶詰じゃない。
ご縁の詰まった一缶です。

本当は、
こういうものほど食べるべきなんだと思う。

いただくことで、
初めて完成する

でも、まだ開けられない。

「いただきます」って、
ちょっと覚悟がいる言葉だなと思いました。

いつか“ここぞ”という日に。

その時は、ちゃんと味わいます🙏✨

月島のお姉さん

昨日、居ても立っても居られず。
月島へ。

正直、
何を食べても飲んでも変わらない。

気分なんて、
そんな簡単に治らない。

「大丈夫」って言う人ほど、
だいたい無理してる。

でも——

一人で抱えてるより、

誰かといる。

それだけで、十分。

人は、
一人で強くなれるほど、
できてない。

だからせめて、
一人で抱えなくていい場所が、
どこかにあればいい。

ふらっと来て、
何も話さなくてもいい。

ただ座ってるだけでもいい。

そんな場所でありたいと、
思っています。

🍺🙏

26回目のニッパチの日

今日は、まだ気持ちの整理がつかない中での開催となりました。

それでも、3ヶ月連続で聴聞に来てくださったSさん。
ゴールデンウィークにも関わらず足を運んでくださり、本当に有難う御座いました。
いつも質問や近況を聞かせていただき、こちらこそ勉強させていただいております。

そして、日頃より大変お世話になっている先生もお越しくださり、
「一人じゃない状態」にしていただいたことが、どれほど大きな支えになったか分かりません。

皆さんお一人おひとりのおかげで、
共に御同朋として、26回目のニッパチの日を無事に勤めることができました。

子ども食堂も7名+2名。
「また来月も楽しみにしています」と言っていただけたことが、とても嬉しかったです。

いろいろな思いがある中で、
「ニッパチの日に行きたい」と話してくれていた先輩の願いは、叶わなくなってしまいました。

静かになった本堂で、今日一日を振り返ると——

もしその先輩が見ていたら、
きっとこう言ってくれる気がします。

「ちゃんとやってるな」と。

僕もその時が来たら、
今度は電話ではなく、直接たくさんの思い出話をしましょう。

本当にお世話になりました。
心より感謝申し上げます。

くらべず、あせらず、あきらめず。
自分らしく、これからも歩んでまいります。

ps .ちょっと写真と違うスティッキオは突っ込まないでください😉✨
本のご寄付、すずらんの花、お供物、有難う御座いました🙏😌