

住職の独り言ささやきです。親鸞聖人は小さなつぶやきやささやきに耳を傾けて人々の言葉を聞き逃さなかった方だと思います。
「先日、精神科の先生である斎藤学さんの「家族という名の孤独」という本を読まさせてもらいました。斉藤さんは二十世紀の後半は人がこの世にあって、苦しみや悩みから抜けだし、いかに合理的で快適な生活ができるかを目標に猛進してきたという。しかし「悩みは恵み」という言葉があって、悩みこそが人に成長をもたらすと思うので、周囲の悩んでいる人々には「おめでとう」と言うという。
人がこの世にあって、そんなにはしゃいで過ごせるわけはない。いつの間にか寂しさを抱えて生きるという苦痛を否認し、目前の仕事や名誉やセックスや金儲けを追及してきた。世紀末の今、「酔いから覚醒」への動きが人々の間で除々に明瞭になっているように思われるという。~中略~
人は少々ブルーな気分で、適度の寂しさを抱えながら生きるのがいいという。そんな日々の中でこそ、もう一人の人との出会いが、何ものにも代えがたい温もりになるし、道端の緑の芽吹きに奇跡を感じることができるようになる。家族に包まれることは恵みだが、家族の温もりに酔うのは危険である。人は人の群れの中で、真の孤独を感じる。そしてその孤独の痛みが他人との関係を大切にさせるのであるというのである。覚醒に伴う苦痛から逃れるために新たな酔いを求めるのでなく、寂しさを抱えながら孤独の痛みがあるからこそ、他人との関係が大切になるという。お念仏は人が人になる行、慙愧を懐ける人が生まれてくるのがお念仏であります。」
(「東別院だより」H10.10月 名畑龍童前輪番)
「こころ」はだれにも見えないけれど、「こころづかい」は見える
南無阿弥陀仏
今年はリモートでの報恩講でした。
南無阿弥陀仏
「逆境で咲く花は、すべての花の中で、もっとも珍しく美しい」ウォルトディズニー
恥ずかしながらつい先日まで存在を知りませんでした。毎週火曜日が真宗の日だそうです。隔週で東西交代で相談を受けているそうです。
浅草の先生は10年間このセンターでボランティアを続けているそうです。誘われましたが、わたくしが相談したいくらいなので丁重にお断り申し上げた次第です。
「話しを聞けない自分が知らされました。世の中ほんとにいろんな悩みを抱えておられる方の多さに気付かさせられます。東京ドームシティのゴンドラを眺めながら感じました。」
と、仰っておりました。
南無阿弥陀仏
昨日は昨年より始まった研修会の最終日。長かったような短かったような…
コロナ下での試行錯誤した研修で、スケジュールはまだ残ってますが、講義は最後となりました。
ほんとにいろいろ勉強になりました🙏🙇♀️
有難う御座いました。これから始まるんですね。
南無阿弥陀仏
「人生は演劇である」
シェークスピアの有名な言葉です。
人生という舞台の主役は自分。脇役は縁ある人々。その舞台には悪役もいれば正義の味方もいる。全員正義の味方では全くつまらないお芝居になってしまいます。悪役がいるからこそ面白い劇になるのです。では自分にとっての悪役は誰かと言われると困りますが、自分が悪役になる場合もあります。つまり、みな与えられた配役を演じているということです。お金持ちに産まれれば、お金持ちの役。貧乏に産まれれば、貧乏の役。女に産まれた、男に産まれた。もっといい亭主と一緒になれば良かった。呑んだくれでどうしようもない。どうして一緒になってしまったのか。その逆もあると思います。つまりそれは全部自分に与えられた役割であり、自分が人生の主役なのです。提婆達多もわざわざ誰もしたくない悪役を演じているのだと言われた先生がいました。そして悪役を演じきったのです。悪役がいなければ舞台は成り立たないのだということを言われたのだと思います。そう考えれば、あ、この人は俺の為に悪役を演じてくれているのだと考えれば人生の問題もあまり深刻に考えなくても良いのかもしれません。
ハッピーエンドで終わる芝居はつまらない。バッドエンドで終わるからさこそ面白いと言われた方がいました。
世界の名だたる名画と言われている作品は別れで終わります(全てとは言えませんが)つまり、別れによって愛は完成するということです。究極の愛は死別ということではないのかなと思いました。
今日はリモート研修の最終日…
終わっちゃうのか、なんか寂しいな…
いや、これから始まるんですね💡
南無阿弥陀仏