開教者会報恩講お逮夜
南無阿弥陀仏





住職の独り言ささやきです。親鸞聖人は小さなつぶやきやささやきに耳を傾けて人々の言葉を聞き逃さなかった方だと思います。
開教者会報恩講お逮夜
南無阿弥陀仏
私たちはみんな幸せを求めて一生懸命生きております。
しかし、日本において2023年はなんと2300人の方が餓死しております。(厚生労働省人口動態調査)
もうお亡くなりになりましたが、大谷派の先生で宮城しずかと言う先生がおられます。先生は京都市内のお寺に生まれました。京都市内の終戦後の食料不足は大変だったそうです。6人家族の3日間の野菜の配給が芋づる15本だけで、主食ももちろんお米ではなく、進駐軍の放出物質の缶詰めが一つ当たるだけです。家で中を開けてみると、石鹸のような小さなものが臭い匂をしている。この石鹸を食べて過ごせというのかという思いで、それはいったい何だったかというと、チーズだったそうです。チーズはその頃まったく見たことも食べたこともありませんから、そんなものを一缶もらって6人家族がどうして食べていくんだと。
そういう中をお母さんがいろいろ苦労して、食べ盛りの子ども達のいのちを繋いでくれたそうです。
ただそのときに思い知らされたことは、一日の中でいちばん空腹なときというのは食後だと言われました。食事を終わって箸を置くときの空腹感。身体の上からいえば食べる前がいちばん空いているわけですが、しかし、そのときはまだ希望がある。もうじき、ちょっとでも食べれると。母親が茶碗を洗ったり、ちゃぶ台に茶碗を置いたりする音が聞こえたりすると、もうお腹がぴっこんとすると。食べ終わるといっても、ほんとうのちょこっとですから、満腹なんてとても遠い話です。
ですから箸を置くときに、これで次の食事の時間まで何も食べれないんだと思うと、そのときに絶望的な空腹感を味わうのですと。人間はこころで生きている存在なんですと。
食事の前が肉体的にはいちばん空いているはずだけれど希望がある。だけど希望がなくなって次までと思うと途端にがくっとくる。そういうことも味わって来られたので、テレビでときどき大食い競争をやっていて、いくつものお寿司を頭を抱えながら食べている。ああいうことを見ると無性に腹が立つと仰っておりました。
日本と言う国は1日に輸入する量より、食べきれなくて捨てている量の方が多い変わった国です。
今は、グルメインフルエンサーの活躍もあり、毎日美味しい人気のお店の情報が簡単に手に入り、食べ物が溢れている裏では、食べたくても食べられなくて毎日6.3人の方が命を落としております。
しかし、食べなくても死ぬけど食べても死にます。
生きるとは何か。何のために食べるのか。生きるとは何かがはっきりしなければ、何のために食べるのかわけがわからないまま命終わっていくことになります。合掌
今日も前向きにいきましょう😌✨
うちの駐車場は前向きなのです💡
人生相談でよく、
「明るく前向きに生きましょう。
何事も、前向きに考えましょう。きっと明日も、何かいい事が起きますよ。」
みたいな人生相談はないでしょうか?
僕はこう言う答えに少し違和感を感じます。
もちろん、前向きに生きましょうと言う言葉は良い考えで、悪い考えと言う人は少ないでしょう。
しかし、よくよく考えてみるとどっちの方向が前向きなのかわかっているでしょう?
前向きと思っていた方向は、実は後ろ向きだったり明後日の方向だったりしないでしょうか?
自分の進んでいる方向は前向きで間違いないと勘違いしていることはないでしょうか?
どっちが前向きなのか?を教えに訪ねて行く歩みが前向きなのではないでしょうか🙏😌
自分の思い込みを破るはたらきを真宗と言います。人間の煩悩を喜ばせたり、酔わせたり眠らせたりする教えではありません。
南無阿弥陀仏
阿弥陀さんの宮殿を去年の9月に移安して無くなっちゃったので、この度新しい宮殿がやってくる事になったので嬉しいなと思います🙏😌
南無阿弥陀仏
かつて信國淳(のぶくにあつし ※)という先生が「わかってもわからんでもいいから、お念仏(ねんぶつ)申しなさい。そしてお念仏によって育てられなさい」とおっしゃいました。人間というのは仏さまのはたらきによって、また如来(にょらい…「阿弥陀如来」)によってお育てに預かることが大事だと。では、育てられるとはどういった意味なのでしょうか。仏教を学んで賢い人間になる、知識や教養に溢れた人間になる、立派な人間になっていく、もう少し優しい心を持つような人になっていく、となるように育てられるという意味なんでしょうか。
育てられるということは、如来の問いかけを聞く者となっていくこと。日々起こる事象、事柄を通して、「あなた自身どういう人間として生きていますか」。あるいは「煩悩具足(ぼんのうぐそく)であるあなた自身に帰っていますか」という問いかけをきちんといただくということが、お育てに預かるとか念仏に育てられるという意味なのではないかと思うのです。決して誰にも負けないような人間になっていくことが仏法(ぶっぽう)を聞くことの意義ではないのです。
信國淳
1904~1980。元大谷専修学院院長、大分県來覺寺前住職。
中野 誠二氏
真宗大谷派 大昭寺住職(北海道)
今日は午前と午後の願入寺でのご法事が2軒🙏
どうぞどうぞ、お寺でのご法事お待ちしております🙏
お気をつけてお越しください🙏😌
南無阿弥陀仏
おかげ様で46歳になりました。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます🙇
昨日は法話会に来てくださった方が、子ども食堂に来た子たちの相手をしてくださったり、地域のみんなが集い、みんなで支え合っているほっこりした時間を過ごさせていただき、嬉しいなあと思いました。良い誕生日プレゼントになりました☺️
有難う御座いました🙏😌✨
南無阿弥陀仏
ニッパチの日。1年が経ちました。
今日は坊守に無茶振りで感話をお願いしました🤭
子ども食堂も4回目。限定20食ほぼ完食。
法話会後、残ってお手伝いいただき有難う御座いました🙇ほんとに助かりました😹
豚丼最高‼️㊗️🎊
南無阿弥陀仏
今日はニッパチの日。
どなた様もお参りください🙏😌✨
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「ドストエフスキーはクリスチャンです。「罪と罰」という有名な小説があります。そのなかにソ-ニャという娘の飲んだくれの親父がいます。その父親が飲んだくれています。その飲んだくれの親父が飲み屋で演説している。その中に、こういうセリフが出てくるんです。自分は罪深い人間だから、娘が娼婦で稼いだ金で私は飲んでいる。こういう罪深い男だから、決して神様は救ってくれないだろう。最後にどんな死にかたしてもそれは当然だ。けど、ひょっとすると神様はこういうかもしれない。罪深い者よ、自分自身到底救われないと思っているがゆえに、私は汝を救うと。そういう説をいうんです。これは不思議な論理です。到底私は救われないに違いない、けれどもしかしたら救われないと思っているがゆえに汝を救う。きっと救ってくれるに違いない。救われないはずのものが、救われていく。救いにあずかる。ドストエフスキーはキリストの教えを小説に反映しているかわからないけれど、キリスト教徒の人に訪ねたけれどそれはわからない。もしかしたらキリスト教の教えにそういう教えがあるのかもしれない。救われるはずがないという自覚において、法がしからしめられた、法のはたらきによって透徹して自己をしらしめられた出来事です。言葉です。不思議な逆説的な表現です。蓮如上人も言われます。遠きは近き道理なり。近きは遠き道理なり。全く世間の認識とは違う表現です。これは何を言っているかというと、一歩一歩仏道を歩んでいるとしますよね。俺は頑張ったからここにいるんでないかなと言った時は近きは遠き道理なり。これ一番遠い。その人間の思いこみ、自負心、プライド、これはもう仏道をけがすもの何物でもない。歩みになっていない。善人は手間暇かかるといいます。むしろ遠きは近き道理なんです。」
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