小さな掲示板

「自己を苦しめず、他人を傷つけない言葉のみを語れ。」
『スッタニパータ』(『ブッダの詩I』講談社185頁)

言葉の力は絶大です。言語が文化を形成し、言論が歴史を動かした事実もさることながら、私たちの日常においても、言葉の力はあらゆるところに見受けられます。誰かの言動に深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。無作為に放たれた言葉が私に刺さり、生きる気力まで奪われてしまうこともあります。その一方で、確かな言葉に勇気を与えられることもあります。つまり、言葉には言葉以上のものが宿るのです。

仏教は古来より、言葉の力に細心の注意を払ってきました。言葉が私にもたらす作用を注視し、「行動」や「思考」と並んで、「言葉」が自分を作り上げると考えてきました(身(しん)口(く)意(い)の三業)。なぜなら、この三者は相互に深く結びつき、私が考えること、話すこと、行動することが一体となって、「自分」という存在を練り上げるからです。また、発話行為というものは当人の内的な成熟度を如実に表しますが、言葉は私の内面から表出したものであるにもかかわらず、私にはその力を制御することができません。言葉は、発話者の予想を超えたはたらきをするのです。

したがって、標題のことばは「言葉づかいに気をつけよう」という道徳の話に留まるものではありません。同じ経典に「ひとは生まれると口に斧(おの)が生える」とも説かれるように、悪意ある言葉は文字通り他人を傷つけます。そうした言葉は、発言した後に「しまった」と後悔をもたらし舌禍を招くだけでなく、やがて内側から自己を侵食し(思考と行動に影響を及ぼし)、少しずつ自己を苦しめます。そして何より、悪意ある言葉は人に刺さったまま容易には抜けず(消えず)、人の尊厳を踏みにじり続けるのです。

特定の人を攻撃することで耳目を引こうとする近年の言論活動を見る限り、この社会には暴言や罵詈雑言を求める気分があると言えます。また、言葉が次々と消費される流れに比例し、たったひとつの失言からその発言者の人格までを否定しようとする態度も見受けられます。相手の言葉尻をあげつらい、その言葉の背後にいる人間の姿を見ようとしない傾向のことです。何事につけ社会に向けて発言することが容易になると同時に、言葉が軽視され、言葉の重みが見失われつつある状況の只中に、私たちは立っています。

こうした点から、自身が語ろうとするその言葉に、より一層の注意を払う必要があることは間違いありません。今一度、「私は私が語る言葉の力を完全には制御できない」という事実を思い起こす時が来たのではないでしょうか。

フードドライブ

先日、市の健康福祉局生活支援課の方とお話しする機会があった。
毎日、生活困窮者自立支援の為にあちこち飛び回っておられる方だ。
お話しを伺うと、子供食堂に来られる親子連れの方々は裕福な家庭が多く友達同士が多いそうだ。託児所感覚なのだそう(一概には言えないと思うが…)
本当に困ってる子供達は、家から出られないらしい。子供食堂に行くと貧乏だとバレるからだ。フードバンクにも手を出せない。
子供1人で、子供食堂の場所を調べて歩いて行くだろうか。
フードバンクの場所や炊き出しの場所を調べて歩いて行く子がいるだろうか(ゼロではないと思うが…)

家庭にある食べきれない食品などを持ち寄り、フードバンク団体を通じて生活困窮者や、児童養護施設、母子生活支援施設などの福祉施設に寄付をする事は良いと思うが、本当に困っている人達の家を一軒一軒回って訪ねている方からの現実と理想のギャップの訴えをどう受け止めて行けば良いのだろうか。

以前先輩と同じような事を話しあった。
お寺の勉強会や、研修会は強化事業ではなく、消化事業になってないか。
俺達はこうやって勉強会に参加出来る余裕がまだある。有り難い事ではあるが、勉強会や研修会の存在自体知らないご門徒さんのお陰で成り立っている。

本当に困ってる人達はお寺ではなく、役所へ行くのではないか。行ける人はまだいい。行けない人はどうすればいいのか。

僕があえて言う必要もないし、言わない必要もないのであるとふと思った。

人を開教するより、まず自分自身を開教しなければ🙏

南無阿弥陀仏

普通袴(道中袴)

色目等に規定はなく、縞、無地いずれも随意であって地質も夏、冬の別により、

仙台平、厚地、絽、紗等いずれでもよい。間依の下に限り着用することになっている。

ご本尊 九字十字の名號(脇掛け)

届きました。

御門徒さんが待ってます🙏

南無阿弥陀仏

真宗の本尊は阿弥陀如来一仏です。尊形(そんぎょう)としては阿弥陀如来像によってあらわされ、名号(みょうごう)としては「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」によってあらわされます。「南無阿弥陀仏」は、私たちが阿弥陀如来に帰依(きえ)して生きるという意味です。私や家族または先祖を守り、願いごとをかなえてくれる仏さまとして大事にするということではなく、阿弥陀如来に帰依して生きるということこそが私たちにとって本当に尊ぶべきことなのです。「南無阿弥陀仏」を本尊とするとは、そのように生きてほしいと阿弥陀如来から願われている私たちであると知らされていくことなのです。

※ 御本尊は本山(京都・東本願寺)からいただきましょう。
お寺へご相談ください。

本尊の両側にお掛けする名号のことです。お内仏に向かって右側に十字名号の「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」、左側に九字名号の「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」が掛けられます。阿弥陀如来の徳、はたらきをあらわします。

豊町3丁目会館

願入寺開教所でのご法事は、限られた人数しかお参りが出来なく、

お参りが多い申し込みがあると、断らなければならないことがあって、

心苦しく思っておりましたが、近所に豊町3丁目会館という区の施設

があり、この度借りる事が出来、30名程度のご法事まで可能になりました。

願入寺でお勤めさせていただければ一番良いのですが、法事に限らず

聞法会や何かお寺の行事にも活用させていただきたいと思いますので、

その節はどうぞ宜しくお願い致します。

月忌参り

こちらには、月忌参りの習慣がない。ゼロではないと思うが。
今日主人の命日にお参りに伺ってもいいですか?と月忌参りを頼まれた。
1番大切な月忌参りの習慣がないのは謎であるが、その方を通して今まで月忌参りを当たり前にしていた自分がいて、月忌参りの大切さを改めて思った

一軒から始まる月忌参り

南無阿弥陀仏