1ヶ寺が無くなる辛さ寂しさ悲しさを抱え、もやもやしながらですが仏具整理2日目無事終了。
これからの願入寺の再出発へ向けてやっと一歩前身、気持ちの整理がやっとつきました。長い長い道のりでした。
何とか願入寺を残したい一心で頑張ってきましたが、廃寺も致し方ありません。廃寺へと導いてしまった責任を一生償いながら、次の世代へ引き継がれた思いを陰ながら応援しつつ、共々に頑張っていきたいと思います。
知床へお越しの際は是非清里へ‼️
南無阿弥陀仏
1ヶ寺が無くなる辛さ寂しさ悲しさを抱え、もやもやしながらですが仏具整理2日目無事終了。
これからの願入寺の再出発へ向けてやっと一歩前身、気持ちの整理がやっとつきました。長い長い道のりでした。
何とか願入寺を残したい一心で頑張ってきましたが、廃寺も致し方ありません。廃寺へと導いてしまった責任を一生償いながら、次の世代へ引き継がれた思いを陰ながら応援しつつ、共々に頑張っていきたいと思います。
知床へお越しの際は是非清里へ‼️
南無阿弥陀仏
緊急事態宣言も明け、清里町願入寺の仏具整理に行きました。
「先日、精神科の先生である斎藤学さんの「家族という名の孤独」という本を読まさせてもらいました。斉藤さんは二十世紀の後半は人がこの世にあって、苦しみや悩みから抜けだし、いかに合理的で快適な生活ができるかを目標に猛進してきたという。しかし「悩みは恵み」という言葉があって、悩みこそが人に成長をもたらすと思うので、周囲の悩んでいる人々には「おめでとう」と言うという。
人がこの世にあって、そんなにはしゃいで過ごせるわけはない。いつの間にか寂しさを抱えて生きるという苦痛を否認し、目前の仕事や名誉やセックスや金儲けを追及してきた。世紀末の今、「酔いから覚醒」への動きが人々の間で除々に明瞭になっているように思われるという。~中略~
人は少々ブルーな気分で、適度の寂しさを抱えながら生きるのがいいという。そんな日々の中でこそ、もう一人の人との出会いが、何ものにも代えがたい温もりになるし、道端の緑の芽吹きに奇跡を感じることができるようになる。家族に包まれることは恵みだが、家族の温もりに酔うのは危険である。人は人の群れの中で、真の孤独を感じる。そしてその孤独の痛みが他人との関係を大切にさせるのであるというのである。覚醒に伴う苦痛から逃れるために新たな酔いを求めるのでなく、寂しさを抱えながら孤独の痛みがあるからこそ、他人との関係が大切になるという。お念仏は人が人になる行、慙愧を懐ける人が生まれてくるのがお念仏であります。」
(「東別院だより」H10.10月 名畑龍童前輪番)