帰命とは

「帰命」とは阿弥陀さまを敬(うやま)い信じて順(したが)うということです。私たちは、阿弥陀さまを信じているようで実は自分を信じているのです。その証拠に自分中心の物差しを拠り所とし、その物差しによって人と人との関係を断ち切り、思い通りにならなければ不平不満や愚痴を言い、こんなはずではなかったと過去に後悔、今に不満、未来に不安を抱え人生を空しく生きています。そんな私の姿を哀れみ悲しんで、人と比べる必要のないありのままの真実の世界に目を覚ましてほしいという阿弥陀さまの慈悲のおこころを敬(うやま)い信じて順(したが)うということが帰命ということです。紹介したい文章があります。
『お前はお前で丁度よい 顔も体も名前も姓も お前にそれは丁度よい 貧も富も親も子も 息子の嫁もその孫も それはお前に丁度よい 幸も不幸もよろこびも 悲しみさえも丁度よい 歩いたお前の人生は 悪くもなければ良くもない お前にとって丁度よい 地獄へ行こうと極楽へ行こうと 行ったところが丁度よい うぬぼれる要もなく卑下する要もない 上もなければ下もない 死ぬ月日さえも丁度よい 仏様と二人連の人生 丁度よくないはずがない 丁度よいのだと聞こえた時 憶念の信が生まれます 南無阿弥陀仏』 (大谷派常讃寺坊守、藤場美津路)
 人間の思い込みを破る無量の光に照らされて生きる時、どのような境遇にあっても自分自身を丁度よいと受け止め、人生を引き受けていける智慧と勇気を賜るのです。しかしながら、自分中心の物差しは死ぬまで捨てることはできません。だからこそ、繰り返し聞法することによって、教えに照らされながら「またやってしまった」とその都度気づかせてもらい、傲慢さが失われ謙虚さを取り戻し新たな仏道が始まるのです。阿弥陀仏に南無する(頭が下がる)時人と人との関係が温もり合い、ようやく人間らしくなるのです。それが帰命のこころであるといただいております。