宗教とは

宗教の「宗」は「むね」と読みます。

辞書には、

読み方:むね

中心となるもの。また、重要なもの。「安全を—とする」

2 (旨)述べたことの中心趣旨趣意。「辞退する—を伝え

とあります。総じて「拠り所」という意味があるといえます。つまり「宗教」とは、自分は何を拠り所にし、何を大切にし、何を中心にして生きているか?を問題にし、課題にしているのが宗教ということになります。

では、私たちは何を大切にして生きているかというと、大きく3つに別けることが出来ます。

1、お金

2、健康

3、家族

もっと他にも沢山あると思いますが、だいたいこの3つを拠り所として大切に生きているのではないでしょうか。

経済、経済、経済と連呼された方がおりますが、お金を中心に生きている時は、「金宗」という宗教に入っているといえます。お金より「健康が1番」という時は「健康宗」という宗教に入っており、家族が1番大切という教えを信じている人は「家族宗」という宗教に入ってるということです。

私たちは「浄土真宗」ですから、金宗でも健康宗でも家族宗でもありません。真宗です。では、真宗とは何かと言ったら、真実を拠り所として生きて行きますという教えです。真実とは何かと言ったら、浄土真宗ですから、「浄土」が真実ということになります。私たちは浄土が真実と言われてもあまりぴんときません。そもそも浄土が何かよくわからないからです。その時々の自分の都合によって、金宗になったり健康宗になったり家族宗になってみたりします。もちろんそれらを否定しているわけでも駄目と言っているわけでもありません。どれもそれぞれ無くてはならない大切なものです。良いか悪いかではなく、理屈抜きで大切なものです。大切なものではありますが、その時々の自分の都度でコロコロ変わるものは真実ではないと言うことです。

真実とは、いつの時代のどこの誰でも、永遠普遍に変わらない「真理」を真実といいます。

では、浄土が真実といいますが、浄土とは何か?が問題になります。浄土とは一言で言うと、一言では言えませんが、あえて言わせていただきますと、「合掌する」と言うことです。手を合わせると言うことです。

私たちは何に手を合わせているでしょうか?

インドへ行きますと、「ナマステ」と手を合わせ挨拶をします。ナマステはサンスクリット語で「あなたを敬います」と言う意味です。

では、私たちは何を敬っているでしょうか?

その人それぞれの価値観や世間の常識や国のルールに縛られて、お金、健康、家族を大切に敬って生きております。真実を敬って生きているわけではありません。

合掌の姿は、私は無防備です、無抵抗ですという平和の象徴です。

合掌し合いながら喧嘩する人はいるでしょうか?いるかもしれませんが、少なくとも仏さまに合掌している仏事の時に喧嘩する人はいないと思います。

合掌している時は武器を持つ事も、相手を傷つける事も、自分を傷つける事も出来ません。

しかし、私たちは良いか悪いか、損したか徳したか、暑いか寒いか、うまいかまずいかで一喜一憂しながら、人と人とが比べ合い争いながら生きております。争いの無い時代はありません。争いが日常で、平和が非日常です。アフガニスタンの子供たちは平和と言う言葉が理解出来ないそうです。平和の状態がわからない。常に争いの中を生きているからです。

では、日本は平和でしょうか。武器を持って争っている時だけが、戦争ではありません。受験戦争と言う言葉の通り戦争しているのです。その争いに負けた人たちは負け組と言われ、いろいろな状況や理由があると思いますが、今、日本の何処かで30分に1人が自らいのちを絶っている現実があります。

私たちは争うために生まれてきたわけではありません。

合掌を通して真実に出会う。

浄土という世界は、1人1人のいのちが光輝き、一切の差別がなく、みな平等で争いがない世界です。

私たちの娑婆世界は、1人1人のいのちが光輝かないで、差別だらけで平等ではなく争いしかない世界です。

宗教はこわいと世間では思われる方がおりますが、騙す方も騙される方も根本的には同じです。この壺一つで病気が治ると言われて喜ぶ人は健康宗で、この壺一つ売ったら献金して貰えると喜ぶ人は金宗なのです。真実を敬っているわけではありません。自分の都合を敬っているだけです。

自分さえ良ければよい、そのようなあり方をしている私ですが、一日に一回は仏さまに手を合わせ、一か月に一回はお寺に来て手を合わせ、一年に一回は京都の本山へ行って手を合わせることが真宗門徒の生活のたしなみです。一日中手を合わせて生活出来ませんから、最低一回はと言うことですが、何回でもいいのです。世界中の人が一斉に手を合わせる事が出来れば争いは起きませんが、それは不可能です。

しかし、あなたの救いが私の救いですという心も微かにはあります。ゼロではありません。

みんなそれぞれの教えを信じて、それぞれの人生を生きているけれども、どこで、みんな違ってみんないい世界という事ができるのか。

キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、創価学会だろうが、共に救われていく道が真宗ではないでしょうか。みんな一緒になって救われて行きましょうという教えではありません。バラバラでいっしょです。

そのバラバラな私たちが、浄土を真実として歩んで欲しいと仏さまから願われているのです。

天敵がいない動物は必ず滅びる

南無阿弥陀仏

ヘッセ

地獄は克服できます

 「地獄を目指していきなさい。」自殺未遂や精神衰弱、戦争など、さまざまな困難を経てノーベル文学賞を受賞したヘッセの言葉です。もちろん、続く言葉があります。「地獄は克服できるのです」

 「私がまたしても通り抜けなければならなかったこの恐ろしい空虚と静けさ、死にたくなるような心理的狭窄感、孤独感、そして疎外感、愛の欠如と絶望という、空虚な荒涼とした地獄に落ち込んだあとは、決まってなんらかの仮面がはがれ、理想が崩壊していったものである。しかし私はこのような衝撃を受けるたびごとに、結局、何かを獲得してきた。それは否定できないことである。つまり、以前より少しばかり自由になり、精神的にゆたかになり、深みを増したが、同時に孤独になり、他人に理解されないという気持ちが強まり、以前よりも他人に冷淡になったのである」

 地獄を抜け出して、また地獄に行く。自分の姿をこう告白しています。恐れることはない。強くあれ。そんなふうに聞こえます。

理想と現実とのはざまに地獄はあるのでしょう。理想が高いほど、地獄も深いのだと思いますが、だからと理想に背を向けるなとも聞こえます。

芸術家にとっては「スランプ」という恐怖もあります。それでもなさねばならないのは、使命なのか、業なのか。それも地獄ですが、その地獄の中を粘り強く行くなら、その使命なり業なりといった自我を超えたところにたどり着くように思います。

自我が消えれば、おのずと地獄も消えるでしょう。

いまさらながら、生きることは大変なことです。自分が自分である自分につきあうということが難しい。懊悩のほとんどは他人ではなく自分への対処の仕方や自分との距離なのではないかと思います。

でも、そこに人間としての喜びもあり、学びもあり、醍醐味があるのですね。

生きていこう。この生もまた大調和のための一片にして全体なのですから。

南無阿弥陀仏

墓参

本日はお墓参りに来ました。

身内のお墓参りは、お盆時期は中々来れ

ないので、いつも過ぎてからになってし

まいます。

昨年もそうでしたが、いつも来ると🐸さ

んがおります。まるで、来るのを待って

いたかのようです。

今日も暑かったので、たくさんお水をか

けてあげました。

南無阿弥陀仏

ハス池

北見市のハス池

旧願入寺の総代さんが、北見の門徒のお

寺のご友人にハスの植え方教えてあげて

制作したハス池の会に呼ばれた際に撮っ

た写真です。

また行きたいな

南無阿弥陀仏

思い出の夏休み

あっという間に時間が過ぎ去ってしまいました。

初めての原宿。今流行りのタピオカは無理でした

が、充分東京満喫したようで嬉しかったです。昨日無事帰路につきました。また来てね〜😊

南無阿弥陀仏