東別院テレホン法話です。
蓮如上人の五百回御遠忌を明年に迎えることになりました。蓮如上人といっておわかりいただけない方でも、葬儀のあとに還骨法要がつとまりますが、その時に拝読される “自骨のお文”を書かれた方ですというとおわかりいただけると思います。その御法要のテーマが「バラバラでいっしょ、一差異をみとめる世界の発見一」です。
辺見庸という作家が対談で次のような話をしております。「ぼくは今、非常に興味があるのは臭いなんです。臭いに無性の関心がある。というのも、地下鉄に乗っていたら、排泄物の臭いを消す薬という広告を見たんですね。これが高校生の間で流行っているという。ポケットベルとその薬。
これが常備だっていうんです。ぼくは自分の排泄物も臭わさないで、人生いったい何が面白いのかと思う。さっきいった黒板のチョークを黒板消しで消すようにして人を殺せるというのもそれです。相手の臭いとか痛みとか手触り、そういうものを全部排除する社会になっている。相手の手触りとか言葉とか息づかいとか肌の感触とか、最近の日本人はそういうのが嫌なんです。直接的に交わるのが嫌なんです。臭いにまみれたり、汗にまみれたりすることを非常に嫌がる。美しさ醜さ、この基準を今の日本のようにこれほど単純にステレオタイプ化した歴史というのも人類史の中にないと思う。」という発言です。誠にその通りだと思います。
現代の人間には顔がないという。個性がない、特性がない。みんな考えることも、行動することも、相貌さえも均一化してきているし、均一化しようとしている。他と同じであることに安らぎを求めるということは、同じでないものを差別し排除する世界を作り出すのである。そこには他者との本当の意味での関係は生まれない。お互いの悲しみや痛みを共有する本当の関係が生まれてこないのです。誰にとっても、ありのままの自分を受け入れてくれる「ふところ」が欲しいのです。差異は差異で光輝く。差異があるから学べる世界を発見する。この私一人の蓮如上人五百回御遠忌お待ち受け大会が六月一日に別院で開催されます。また、今月七日、三十一日と講座がございますので是非ご参加下さい。
(東別院テレフォン法話より)