ダルマさん

ダルマさんは、禅をインドから中国に広め大成させた、中国禅宗の開祖、達磨大師がモデルになっています。
元々は禅宗なので、浄土真宗の私たちには関係はありませんが、同じ仏教なので全く関係ない!とはいえません。

ダルマさんを見ていて思ったことは、ダルマさんには目がないと言うことです。
選挙の時くらいしか見ないダルマさん。願いが叶うまで目がありません。

仏教の仏とは、お釈迦さまの仏陀のことで、覚って目覚めた者と言う意味があります。
目が覚めると言うことは、迷いから目が覚めると言うことです。
私たちの迷いは自分中心、自分さえ良ければ人はどうなってもよい。人の願いは知らんぷりで、自分の願いだけは叶えてほしい。
そんな自分勝手な私が何に目が覚めるかと言うと、2つの自己と自我(エゴ)に目が覚めるのです。
自己とは、
肌の色・経済・性・能力・容姿・健康・社会的地位、それぞれに様々な違いがあっても、決して分け隔てしてはならない、人間として同じ「いのち」であり、存在は絶対平等ないのちを生きている。それが私たちの原点、人間の始まりです。

そして、自我とは

存在の事実は、みんな同じいのちのはずですが、私たちの利害を中心とした日常の生活では、無意識に自我を土台にしてエゴイスティックな心に従って生きてしまう。
自分たちの利益が優先され、その利害に合わないものは排除し、抹殺していく。
自我とは分別心です。物事を二つに分けて考え判断する心です。どういうふうに分けるかというと、善・悪、優・劣、上・下です。それによって私たちは序列を作り、比べ、価値付け、優越感に浸ったり、劣等感に沈み込んだり、そうして自分も他者も傷つけていくのです。戦争・テロ・いじめ・虐待を引き起こしてしまうような、自分自身に目が覚めるのです。

しかしこれだけでは、ただ知ったということにとどまり、観念的な理屈だけで終わってしまう可能性があります。また、知ったからといって自我の心がなくなるわけでもありません。

自己といういのちに自我の心で背き、背いていることにも気づかず、自分を正当化して自己中心的に生きている愚かな悲しい存在であることを感覚する。

つまり解釈や知識という頭での理解ではなく、この身に実感するということです。それが感受です。そこには必ずこの身の痛みがあります。
人間は、どこまでも傷つけ合うことから離れられない現実を抱えています。ウクライナやパレスチナの問題がよくそれを示しています。一度戦争が始まるとリセットができません。政治で解決しようとしても政治では解決できません。国連の姿を見ればそれがよく分かります。
人が殺戮されていく現実よりも利害が重要視されてしまうのが、人間の悲しい現実です。
人類の長い歴史を背景に、人間が引き起こしてきた様々な問題を本当に解決していく道は、一人ひとりがいのちの尊さ、重さに立ち返り、自分たちの利益中心の自我の心が他者を苦しめているという痛みの中で、その痛みをお互いが感じ取っていく、つまり感成していくことしかないのです。「成道」は、道が開かれ成就することです。人間の内なる痛みこそが人間の救いとなっていきます。それがお釈迦さまの覚り「成道」です。

ダルマさんから、目覚めよとの声が聞こえてきます。

南無阿弥陀仏