「いのち」みえますか

本願寺派の教学伝道研究センターで、教学シンポジウム「いのちをみつめて~教育の現場から~」が開催されました。十代の若者の「いのち」に対する率直な意見を聞く場として企画されたそうです。
そこで「いのちの教育」の先駆者として知られる福岡県立久留米筑水高校の教諭、高尾忠男さんが基調講演されました。高校で取り組む「いのちの授業」で、生徒たちに卵から育てさせた鶏を、自分の手で殺傷させて、水炊きにして食すというところまで実施しており、シンポ冒頭に、その授業の模様を紹介したドキュメンタリービデオが上映されました。その記録の、号泣し何度もためらいながら鶏にとどめを指す女子高生たちの成長の軌跡が、シンポに参加した高校生に生々しく伝わったのです。
そして、この授業を実際に経験した同校卒業生の坂井美紗子さんは「いただきます」の六字がただの食事の挨拶ではないことを、自分の子供に伝えたいと言われております。
普段「いのち」は自分の所有物のように考えておりますが、「いのち」を「いのち」たらしめている世界を見失って生きているのです。坂井さんが言われる通り、「いただきます」は、沢山の「いのち」をいただいて存在する私たちの「いのち」をいただくことばなのです。スーパーに買物にいくと肉や魚の切り身がパックに入って売られているので、牛・豚や魚の「いのち」が見えません。魚から骨まで抜いて売る時代ですから、魚はもともと骨がないものと思う時代が来るのかもしれません。
病気になったら病院で、苦しむ姿を家族に見せず、死ぬのも病院で、死にゆく姿を家族に見せず、見事に飾りつけた祭壇で葬儀を営む今日、ますます人間は本当の姿、現実を見失ってしまうのです。
「いのち」そのものを見失って生きるありようを仏さまは迷いと言われるのです。(帯広別院輪番名畑龍童)

「報恩講」−出口なき暗闇からの解放−

明治維新後、日本は西洋の価値観を基準として、文明開化・殖産興業・富国強兵の道を猛進してきた。西洋思想の基本にはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」があり、人間は万物の霊長であると考えた。人間は考えることができる唯一の存在であるが故に、どのような困難な問題でも、人間の知恵、理性、知性によって、必ず解決できるのだと考えた。
しかし、どれだけ深く考え、思い巡らせても限界がある。その証拠に、我は正義なり、と考えて戦争をし、自分の思い、考えにあわないものを差別、排除し抹殺する。また、合理的に豊かで快適に、便利で早い生活をしようと考えた。その結果、今日、大量生産、大量消費そして大量破棄によって自然を破壊し、自らの存在の根拠さえも風前のともし火となっている。人類、いや地球の未来に、もう夢や希望はもてない、出口なき暗闇である。すなわち三悪道(地獄・餓鬼・畜生)そのものである。終わりなき闘争とむさぼり、束縛の世界である。人間は理性や知性あるが故に存在しているのではない。
清沢満之先生は「絶対無限の妙用に乗推して、任運に法爾に比の境遇に落在せるもの」といわれる。
人間の知恵では、はかり知ることのできない限りないはたらきの中に、すべての存在はあらしめられてあるのだと。
阿弥陀知来はこのような自我意識(我思う、ゆえに我あり)に自縄自練されている愚かな私を、すべての存在を存在たらしめている、時空を超えた限りなきはたらきの世界にめざましめるのである。
このことのほかに暗闇からの出口はない。(帯広別院輪番名畑龍童)