お寺とは

お寺は何のためにあるのか?それは、言うまでもなく聞法の道場ですから、仏法を聞くためにあるのはもちろんですが、そもそも教えを聞く必要性があるのか?

一部の限られた人にしか開かれていないのではないか?

仏法のぶの字も知らない、世間の大半の人は今日の報恩講さえも知らない、朝から晩まで汗水流して、仏法を聞く暇もなく働いている方が大勢おられると思います。

そういう門徒さんお一人お一人の浄財で、成り立っているということを忘れてはいけないと思います。

先生の言葉を紹介させていただきます。

「私たちは、すでに、「門徒にもたれたもの」としてこの身があるという事実があるということです。それこそ、これまでの御遠忌の歩みも、今日のこの御遠忌大会も、すべてご門徒さんの懇志によって成り立っているということであります。違う会で、ある先生からそのことを教えていただいたのですが、今日ここで、教区の御遠忌大会が行われているということを全く知らないで、今このときも畑で草むしりをしている父さん、母さん、じいちゃん、ばあちゃんのお財布に支えられて、この大会が成り立っているということです。そのこと自体が、「願いの表現」ということなのでしょう。

「坊さん、仏法中心で生きてくれ。酒飲んでもいい。遊んでもいい。ただ、後生の一大事だけは忘れるな。そのことを忘れない生き方をしてほしい」ということですね。それがある意味、「すでにして悲願います」ってことなんじゃないですか。」

本当にいろいろありますが、悩み苦しみが無くなれば何を頼りにしていいかわからなくなるから、天敵がいない種族は必ず滅びるということ。

共に生き、共に育ち合う関係性を大切に歩んでまいりたいと思います。どうぞ宜しくお願い申し上げます。