不安に立つ

安田先生は、

「本願の智慧が“不安”という形で人間に来ているんです。不安が如来なんですわ」

とおっしゃっています。

その言葉を読んだとき、まさに自分自身のことを語られているように感じました。

坊さんをやめることもできない。

かといって、坊さんとしての自信があるわけでもない。

このまま続けていけるのか。

将来どうなるのか。

そんな不安の中に立っている自分がいます。

宗祖親鸞聖人に向き合うということは、

不安を消して強くなることではなく、

不安に立って歩まれた宗祖の姿に、

自分の生きる姿勢を学ぶことなのだと思います。

宗祖に会うとは、

自分に会うということ。

今、私はどういう在り方をしているのか。

どういう生き方をしているのか。

そこに目を覚まさせるはたらきが、

願であり、仏である。

だから、仏教は結果を問わない。今が全てで結果であるから。

今、この身をどう生きているのか。

その事実に目を覚ましていく教えなのだと思います。

命が文句を言っているわけではない。

心臓が文句を言っているわけでもない。

それなのに私は、

与えられている事実に気づかず、

足りないものばかりを見て、

不安を悪いものとして遠ざけようとしている。

けれど、

その不安こそが、

私を呼び覚まそうとしているのかもしれません。

不安が如来なんですわ。

この言葉の前に、

今日もまた立たされています。

何で死ぬのだろう

検視の結果CTから心タンポナーゼだったと…

自◯ではなく良かった…

だからこそ、

「だったらなおさら、どうして…」

「普通に戻ってくるはずだったのに」

という思いが強くなる…

「なんで人って死ぬんだろうね――」。父親を亡くした友人が私に問いかけてきました。突然のことで言葉に詰まってしまい、しばらくのあいだ沈黙が続きました。仏教を学んでいる私であれば、何か答えてくれるかもしれない。友人はそう思ったのかもしれません。しかし、友人が期待していたようには答えることができませんでした。
生まれてきたものは死んでいかなければならない。そのことは知識としては知っています。しかし、いざ悲しみのなかにいる友人から「なぜ人は死ぬのか」と問われて、生まれてきたからだと返答することは、知識を答えるものであっても、友人の問いを満足させる答えではありません。二人の間にある沈黙だけが、その問いの答えを知っているかのようでした。
ときに人は、問うてみても答えようのないことを問わずにおれないときがあります。とりわけ愛する人との別れは、頭でわかっていても「なぜなんだ」と、その死を問わずにはおれません。私たちは人間である以上、必ずこの別れの悲しみに立ち尽くさざるを得ないのでしょう。人間には、どのような知識をもってしてでも間に合わないことがあります。
人間であるがゆえに避けることのできない悲しみを誰しもが持つ。それは〈人間であることの悲しみ〉と言えます。別離による〈人間の悲しみ〉の底には、〈人間であることの悲しみ〉が流れています。
阿弥陀仏の大悲は、人間であるがゆえに誰もが持たざるを得ない悲しみのうえにかけられているものです。私たちは、日々の生活の中で、自分の思いではどうしてみようもない悲しみややるせなさを抱えて、ときにそれを隠したり押さえつけたりして生きています。しかし、その人知れず流す悲しみの涙に、静かな眼差しを向けている大悲の心があります。それは人間であることの悲しみを知り、その悲しみを共にしようとする仏の心です。私たちの悲しみや涙は、仏の大いなる悲しみに出遇う場でもあります。
人は何に救われるのか。「がんばりなよ」の励ましの言葉もありがたいけれども、それは流れる涙を乾かしていかなければなりません。しかし乾ききらない涙があることも、また事実です。かえってその涙の悲しみを知り、共感共苦しようとする心に触れることによって、この涙は居場所を得ていくものではないでしょうか。
友人が悲しみのなかから発した「なぜ人は死ぬのか」との問いかけは、いまなお、人間であることの悲しみをもつ私であることを知らされ、そして乾くことのない涙の居場所を教えてくれています。
 
藤井 眞翔(ふじい・まこと)長崎県/西光寺