「ドストエフスキーはクリスチャンです。「罪と罰」という有名な小説があります。そのなかにソ-ニャという娘の飲んだくれの親父がいます。その父親が飲んだくれています。その飲んだくれの親父が飲み屋で演説している。その中に、こういうセリフが出てくるんです。自分は罪深い人間だから、娘が娼婦で稼いだ金で私は飲んでいる。こういう罪深い男だから、決して神様は救ってくれないだろう。最後にどんな死にかたしてもそれは当然だ。けど、ひょっとすると神様はこういうかもしれない。罪深い者よ、自分自身到底救われないと思っているがゆえに、私は汝を救うと。そういう説をいうんです。これは不思議な論理です。到底私は救われないに違いない、けれどもしかしたら救われないと思っているがゆえに汝を救う。きっと救ってくれるに違いない。救われないはずのものが、救われていく。救いにあずかる。ドストエフスキーはキリストの教えを小説に反映しているかわからないけれど、キリスト教徒の人に訪ねたけれどそれはわからない。もしかしたらキリスト教の教えにそういう教えがあるのかもしれない。救われるはずがないという自覚において、法がしからしめられた、法のはたらきによって透徹して自己をしらしめられた出来事です。言葉です。不思議な逆説的な表現です。蓮如上人も言われます。遠きは近き道理なり。近きは遠き道理なり。全く世間の認識とは違う表現です。これは何を言っているかというと、一歩一歩仏道を歩んでいるとしますよね。俺は頑張ったからここにいるんでないかなと言った時は近きは遠き道理なり。これ一番遠い。その人間の思いこみ、自負心、プライド、これはもう仏道をけがすもの何物でもない。歩みになっていない。善人は手間暇かかるといいます。むしろ遠きは近き道理なんです。」
南無阿弥陀仏