聞法

「大事な事が土寸と落ちている場所。これが、お寺という場所です」
仏教の勉強をしてこなかった20代の私の耳に、その言葉は衝撃的に飛び込んできた。「寺」という漢字の上下を解体し「土寸」と読ませて、仏法の大切さを明確に感じさせてくれた先輩念仏者の言葉である。
「寺に落ちている大事な事って何なんだ?」なぜか、その問いに体を鷲掴みにされたことを記憶している。
その人は、また、次の言葉を残してくれた。
「僧侶というのは、如来に背を向けている最も危険な場所で法話をしているということを忘れないでほしい」
少しだけ仏教を勉強するようになって泣く泣く法話をし始めた頃、またしても背筋が伸びるどころか、背骨がそり返るくらいの感覚を覚えた言葉である。当時、住職が亡くなり、26歳の私が住職を継ぐことになった。その時、お祝いの言葉として私に贈ってくれた言葉である。
この2つを私に教えとして伝えてくれた人は、もういない。
48歳を迎えた今「聞法とは、積み重ねるものではなく、繰り返すことである」ということを思っている。積み重ねる聞法で賢者になっていこうとする私に、南無阿弥陀仏と念仏申しながら如来に背をむけていく私に、ひとたび、ひとたびの聞法、繰り返しの聞法が、その無明性を教え破り続けていく。そして「南無阿弥陀仏を依り所に生きていこう。仏道に共に帰ろう」と南無阿弥陀仏が私に愚者としての歩みを開き続けるのである。
このことを憶うとき「生涯の日暮らしを共に念仏申し聞法者として生きて欲しい」という先人念仏者の願いとの出あいが底流にあるということに、私は心震えるのである。
仏・法との出あいは、必ず僧伽・人との出あいから開かれ続けていく事柄であり、歩みであるということを、亡きその人との思い出に深く感じ得ながら筆を擱く・・・。  寺澤 三郎(教化本部長)
南無阿弥陀仏