葬儀

「葬儀 高額請求トラブル」

たまたま、昨日見ていた新聞記事の一面が目に飛び込んできました。たまたま葬儀前だったので、痛たまれない、やるせない気持ちになりました。
本多雅人先生は、ラジオ放送「東本願寺の時間」の中で、
「先日、私の寺の信者であるご門徒が仏前結婚式をされました。阿弥陀如来の御像と宗祖親鸞聖人の御姿を描いたご真影の前で結婚を誓う厳かな儀式です。結婚式にはお祝いの法話があります。お祝いの席では、「別れる、死ぬ、苦しむ」と言った言葉はタブーなのですが、それにふれないのは仏教ではありません。私は法話のなかで「お二人が結婚するということは、いずれはどちらかが先に亡くなって、どちらかが棺に花をいれて、ありがとうと言いながら愛する人と死別していく苦しみが来るのを約束するようなものですね。二人が生活を共にするということは、死を生の埒外においやって誤魔化すのではなく、いのちの厳粛な事実をしっかり受け止めて生きていくことを決意するということではないでしょうか。そして死別していくいのちであっても永遠に変わらないものを教えに尋ねていってください。おめでとうございます」とお祝いの言葉をかけました。新郎新婦は深く頷かれていました。式が終わって、参列されていた五十代の女性が私のところに駆け寄ってきました。私は癌をわずらっているのですが、癌のままにかけがえのない命を生きていこうという気持ちになり、今までの私が問われました」と涙ながらに語ってくださいました。この方は自分のあり方を見直され老病死に真向かいになられたのです。教えに照らされると自分の愚かさを自覚するとともに生きる力が与えられるのでしょう。私はとても感動し、仏教にふれる大切さをあらためていただいたことです。
現代に生きる多くの人がそのことを教えられる一番の場が葬儀ではないでしょうか。だからこそ葬儀に仏教が寄り添ってきたのです。ところが、その葬儀すら、経済的効率性のなかで簡略化し、すべてを葬儀社にまかせてしまっています。都会では今や遺体を家庭に安置せず葬儀社に預け、葬儀も火葬場の釜の前で済ます直葬が激増し、ますます死が隠蔽されて、死が自分の問題にならなくなっています。亡き人を縁として、死すべき身をどう生きるかという誰もが本来持っている宗教的課題を明らかにしていくことが、亡き人への本当の供養内容となるのでしょう。教えに根ざした葬儀が回復されないかぎり、現代は益々迷いを深めていくのではないでしょうか。」
と、仰ってくださいます。
お寺は葬儀会社と切っても切れない関係ですし、葬儀会社と仲良くしなければご依頼もないのでトラブルは御法度ですが、葬儀は本来自宅でするものだと思います。自宅で出来なければお寺で勤めたらどうでしょうか。そうすると、トラブルになることは少なくなると思います。仏教が葬儀に寄り添ってきた意義がそこにあります。