人を動かすのは、権力や正論ではない。
どんな相手にもスッと懐に入り込み、気づけば人の輪の中心にいる。
「対等」と言う哲学を解き明かす。
新潟越後の雪深い田舎から、泥水すすって学んだ、ごく当たり前の人間学だ。
いくら頭が切れようが、唸るほど金を持っていようが、人から好かれなきゃ、人生空っぽのまま終わっちまう。
世の中ってのは、人と人との繋がり、その一点に尽きるんだ。
目の前の相手の心をどう温めるか。
どうやってその懐に飛び込み、本物の信頼を勝ち取るか。それが、全てを決める。
理屈じゃねぇ、腹の底から湧き出る「誠実さ」の問題なんだ。
偉そうにするな。見下すな。
誰の上にも全く同じように、白く降り積もる雪のように。
人間も本来これと同じでなきゃいかんのだ。
生まれた場所がどうだ。学歴がどうだなんて、人間そのものの価値とは何も関係もない。
相手が誰であろうと態度を変えず、肩書きや地位という、色眼鏡で見下すような人間に、そもそも誰が心を預けるだろうか。
人との信頼関係は、「対等」という土台なくしては築けない。
「人間はみな平等」
この当たり前の言葉が、腹にストンと落ちた時、初めて見えてくる景色がある。
それは、「寛容さ」、言い換えれば「度量の大きさ」という境地だ。
政治家という稼業は毎日が批判の嵐。
朝刊を開けば、根も葉もない噂を書きたてられ、声を張り上げれば心ないヤジが容赦なく飛んでくる。
事件の後なんかは、まるで日本中の人間から背中に石を投げつけられているような心地だった。だか、そんなものにいちいち心を擦り減らしていて、いったい何が出来ると言うのか。
「ああ、また何か言ってるなあ」
と、遠くで雷が鳴っているように受け流す。
そのくらいの器がなければ、大事業など到底成し遂げられない。
些細なことで、ネチネチと心を悩ませる男を、誰が、「器が大きいと認めるだろう」
一度腹を立てて相手と溝を作ってしまえば、後々まで気まずい空気が続くだけだ。
たとえ馬鹿にされても、「はっはっは」と笑い飛ばせるか。
その圧倒的な度量を見せつける事で、かえって周りは、「この男はただ物じゃない」と、お前の人間の大きさを認め始める。
あらゆる批判の嵐の中で、泰然自若として立つ。その揺るぎない姿にこそ、人は磁石のように惹きつけられていくのだ。
賢い人ほど、なぜか「少し抜けている」ように
振る舞う。その理由を考えたことがあるだろうか。人は誰しも、自分を実際より大きく見せたいと見栄と戦っている。
会議でつい難しい言葉を並べてみたり、知ったかぶりで話しを合わせたり。
だが、そんな息苦しい背伸びは、不思議と相手に見透かされてしまうものだ。
本当に人を掴むのは、完璧な理論武装ではない。むしろ、ありのままを晒し、時には少し足りないくらいに見せる「懐の深さ」なのだ。
少し隙があったり、おっちょこちょいな一面があったりする人には、なぜか安心して心を開ける。
だから、つまらないプライドは捨ててしまえ。
相手が気持ちよく、語れるように聞き役に徹する。知らないことは、「なるほど、勉強になります」と、素直に頭を下げる。
その、謙虚な「配慮」が見えない信頼を育むのだ。そして、いざという正念場で、あなたが隠し持っていた本当の実力を見せたとき、周囲の眼差しは驚きと尊敬に変わるだろう。
これこそが、目先の見栄よりも大きな、「実」を取るための、真の処世術なのだ。(田中角栄)
自分らしく生きて行こうと思います。
