桜の花を見たか

先日、ある地を訪れた時、迎えに来てくださった方が車の中でしみじみとこう言われた。「今まで何十年も生きてきて、毎年、桜を見てきたけれど、本当に桜の花を見たことがあるだろうか」と。ひとりごとのように言われたその言葉がなぜか私の心に止まった。

私もまた何十年も桜を見てきたが、果たして本当に桜の花に出合ったことがあっただろうか。

「奇麗な桜の花をみているとそのひとすじの気持にうたれる」と、八木重吉はうたっている。桜の花はみずからの美しさを誇りもせず、人からめられることもあてにせず、己が生命を精一杯に咲かせる。重吉はその一筋の生命を咲かせる桜の花を見て、一筋になれず、ものにふれて散乱極まりない己れの愚かさを知らされたのであろう。

もと北面の武士・佐藤義清は、二十三歳で出家して西行と名乗った。戦乱に明け暮れる日々に、世の無常を感じたのであろうか。その西行に「すて果てて身はなきものと思へども雪のふる日はさぶくこそあれ」という歌がある。出家するということは、名利を捨て、名利に苦しむ頃悩の身を捨てるということであろう。だが、西行は「すて果てて」なきはずの身が、雪の降る日はやっぱり寒いという。ごまかすことのできないこの身の存在を知らされたのであろう。

それからおよそ五百年後、俳人・芭蕉はこの歌の後にさらに次のような一節を添えている。「花のふる日はうかれこそすれ」。花は言うまでもなく桜である。芭蕉は出家したわけではないが、旅に生を託することで世俗を捨てた人でもある。しかし、桜の花が咲くと、どうしようもなく心が浮き立ってくると。私はここに西行や芭蕉のどうしようもないこの身への、目覚めを通した念仏の声を聞くのである。あちこちから桜の便りの聞かれるころとなった。今年は本当の桜の花に出合えるだろうか。(生命の見える時 松本梶丸先生)