願入寺開基100年記念事業

「願入寺の新たな開教所の土地、建物取得」ご協力のお願い

願入寺は令和5年に開基100年を迎えました。先達の願いを受け継ぎ、品川に移転し5年。戸越開教所(品川区豊町)は、2年定期借家の賃貸(家賃11万5000円駐車場2万5300円)です。そのため、開教活動にも制限があり、その時々の仏事が行えない状況にあります。真宗門徒は報恩講に始まり報恩講に終わると言われます。一年で一番大切な仏事である報恩講のお勤めが出来ず心苦しい日々が続いております。そして、修正会、お盆、お彼岸、ご法事、毎月の法座や勉強会等を皆様と一緒にお勤めすることが私の願いです。その願いを実現するべく、100周年を一つの機縁として、新たな土地建物取得に向けて、戸越開教所(品川区豊町)の移転につきまして、ご門徒、願入寺にご縁のあった皆様に当事業を支えるための御志を頂戴いたしたく、ここに伏してお願い申し上げる次第でございます。ご門徒の皆様より、信仰を支える本堂の建築という当事業へのご理解をいただけるよう、事業の無事成満に向けて勤めて参ります。
尚、各家庭で様々なご事情があることと拝察し、任意による御寄付という形式ではございますが、どうか当事業の意義を最大お汲み取りいただき、御心を寄せていただけますと幸いです。
甚だ恐縮ではございますが、ご理解ご協力を賜りますよう衷心よりお願い申し上げます。合掌



本堂修繕事業 奉讃寄付金

総工費見積 4000万円

リフォームも1000万円ほどかかります。どうか皆様のお力添えをよろしくお願い致します。

【一口 10,000円】

ご寄付してくださった皆様のお名前を奉加帳に記載し、末永く保存し、ご尊家の安泰、ご先祖の永代経等、仏祖三宝に祈念させていただきます。

同  修繕内容
1、土地、建物(八王子物件)
東京都八王子市中野上町4丁目32−1
2、仏具
3、内外陣(本堂内装)の改装

ゆうちょ銀行振替口座
金融機関名 ゆうちょ銀行
記号番号 19940-8884061
【店名】998【番号】0888406
口座名義  国分 誠

皆様の暖かいお心ご支援、ご協力お寄せいただければ幸いです。些細でも構いません。お力をお貸しください。助けてください。よろしくお願い致します。    願入寺住職 国分 誠

ご報告

令和5年10月1日に物件を見つけ、不動産のご尽力のもと無事令和5年12月28日に八王子の物件を正式に登記取得する事が出来ました。これもひとえ皆様のお力添えのお陰です。引き継ぎご支援のほどよろしくお願い申し上げます。

特別御懇志御芳名

圓成寺様

100口

匿名様

70口

圓成寺様

御簾

あみだ堂様

経キン台

国分 正勝様

コーヒー豆焙煎機「カフェプロ 101」3台

田中 清幸様

看板(ナラの木)

岡本 勇様

火舎香炉

島野仏具店様

供花一対

南出 博様

御打敷(前机)

高嶋 豊次郎様

   あや子様

喚鐘

南出 シゲ子様

丸型三具足

田中 ヤスエ様

田中 義之様

平キン

太田 裕子様

一口

山田 隆人様

赤本(勤行本)10冊

新真宗聖典

納骨堂テーブル

ソーダストリーム

カキ氷機

(株)トライドジャパン様

お祝い金

藤田 紀明様

移転祝い

浄徳寺様

結婚祝い

教学研究所同期一同様

移転祝い

真宗会館

結婚祝い

人見 雅人様

移転祝い

上宮寺様

得度祝い、開店祝い

阿部様

開店祝い

サガワ様

開店祝い

ご寄付賜りました。有難う御座いました。(令和6年11月現在順不同)

末代無知の御文

近年日本人の平均寿命は80歳を超えたと言われています。そして、日本人の一日の平均睡眠の統計を見てみますと年代を超えて7時間22分だそうです。切りよく7時間の睡眠で80年の生涯で計算してみると、なんと約23年の睡眠時間になります。そうすると今年で45歳になる私は今まで約13年も寝ていたことになります。起きていてる時間は32年。人生の約半分は寝ていたことになります。ただの統計に過ぎませんから個人差があり一概には言えませんが、しかし今まで気づかなかったこの数字には驚きました。今まで頑張って生きてきたつもりが、半分は睡眠に費やしてきたと思うと何かもったいない感じがします。しかし、睡眠を否定するつもりはありません。寝だめと食いだめは出来ないというように生きていく上でとても大切な営みです。大切な時間と受け取るか、無駄な時間と受け取るか、私の受け取り方が問題なのだと思います。
お参りに行くと必ず最後に蓮如上人のお文を拝読させていただきます。「あなかしこあなかしこ」で終わるお手紙です。その一番読まれて親しいお文さんは「末代無智」のお文さんです。  
 この、お文の最後に「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」という言葉が出てきます。寝ている時も起きている時も念仏すべしと言われています。起きている時ならまだしも、なぜ寝ている時も念仏申せと言われているのでしょうか。蓮如上人は今から500年も昔、人々の睡眠時間の統計をとって、あなたは人生の半分は寝ているのだから起きている時はもちろん寝ている時もお念仏申しなさい促したのではありません。これは睡眠時間のことを言っているお文ではありません。この「ねてもさめても」に漢字にすると「寝ても醒めてもと」となります。つまり、私達は日常生活の中で目をパッチリ開けて生きているつもりですが、実は眠っていると言われているのです。真実に目を覚まさずに自分勝手な妄念妄想にどっぷりつかって、現実から目をそらし自分中心の酔いに眠りふけっていると言われているのです。その妄念妄想から目を醒まさせていただく教えがお念仏のみ教えです。

南無阿弥陀仏

チョコレート

若い人たちの好物にチョコレートがありますが、そのチョコレートの原料となるカカオの生産地が西アフリカだそうです。先日新聞に「子供の売買、西アフリカで横行。カカオ農場で奴隷扱い」という記事がでていました。西アフリカ沖で「人身売買船」が行方不明になった事件がありましたが、当然人身売買は違法行為です。西アフリカのベニンという国の貧しい農場に仲介業者がいき、「子供には教育を受けさせる。仕送りもさせる」と説明して、わずか数ポンド(一ポンドは約180円)で買うというのです。子供たちの行き先は、コートジボワールやガーナのカカオ農場に売られ、粗末な食事と長い労働時間、狭い部屋で酷使され、病気や衰弱して働けなくなれば捨てられるというのです。そして、西アフリカで奴隷扱いされている子供が156万人以上に上るといいます。(2020年、シカゴ大学)
 考えてみると私たちが何の疑問もなしに、美味しいと食べているチョコレートは、奴隷扱いされた子供たちの労働の犠牲の上でのチョコレートなのです。チョコレート一つ取り上げてもそうですから、私一人の生命を保つためには全世界の人の生命と関係しあって保たれているのです。このような沢山の人々の悲しい事実、犠牲の上に成り立っている生命なのです。
 経典の中に「おのおの貪欲・瞋恚・愚痴を懐きて自ら己を厚くせんと欲えり、多くあることを欲貧す」とあります。自分さえよければ人はどうなってもかまわないと言わないまでも、自分の生命の成り立ちをしらないのです。知らないということは知っている者より罪は深いのです。なぜならば知らなければ何の問題、疑問も生じません。知ることができれば罪を犯していることの自覚、懺悔が自然と生じるからです。私の盲冥、闇を照らしだして下さるおはたらきがあればこそ、私の所有物としての生命ではなかった、無量の生命をいただいて成り立っている生命であったと、敬うことができるのでしょう。南無阿弥陀仏
 

地震、津波

本家輪島の願入寺。心配

被災された皆様にお見舞い申し上げます。

昭和の時代輪島から、先代のお父さんが清里へ入寺。坊守は由利本荘市猟師町の超光寺からと聞いております。

いろいろ当時の複雑な事情があったみたいです。

南無阿弥陀仏

三つの限定

あけましておめでとうございます。

″元旦や冥土の旅の一里塚”という俳句がありましたね。お正月になると何がめでたいのかの意味もわからず、めでたいめでたいと何十回、何百回もこの言葉を使います。皆さんご存知の五木寛之という作家がおりますね。浄土真宗八代目の門主である蓮如上人の物語、戯曲などを多く書かれている作家です。その五木寛之さんが人間は”三つの限定”をもってこの世に生まれてきたといわれます。

一つには生まれる時、生まれる処、生まれる環境を自分で選べないということです。二つには生まれたということは、いやおうなしに死に向かって生きているということであり、三つ目にはその死を迎えるときに自分で決められないという”三つの限定”です。ふだん忘れておりますが確かなことですね。三つの限定、それは自分の人生だからといって自分の思いどおりにならないということです。

しかし迷える私達は自分の思い通りの人生はないものかと、思い通りになるかならないかによって人生の価値づけをして生きております。思いの実現ということに人生の価値をみるならば結局思いが破れ、滅びの人生でしかないのでしょう。

仏法に出遇うということは、思いの実現に固執し、埋没し、苦悩している私のありかたしかしていないことにめざめていくことでしょう。このことに目が開かれていく人生であるからこそ、めでたいといえるのでしょう。今年も目を開かせていただくご縁にであわせていただきましょう。

(平成八年一月)名畑龍童遺稿集より

年越し

今年は妻のご両親を東京駅へ迎えに行き、お姉さんの家で妻と家族みんなで年越しをしました。

来年は新しい場所で御門徒さん家族みんなで除夜の鐘をつき、修正会のお勤めが出来ればいいなと思います。

南無阿弥陀仏

中陰に想う

お葬式が終わると、命終の日から数えて七日目に初七日、次の七日目に二・七日というように中陰が勤まります。そして七回目の七日を四十九日として満中陰が勤まります。
中陰は中有ともいわれます。「人が死んで次の生を受けるまでの中間的存在」と辞書には載っております。
死者は、最初は行き先が定まらず家の周りをうろうろしているから、七日ごとに追善供養をして四十九日目にようやく行き先が決まるのだというように考えられております。

たとえば次のような寓話を聞いたことがあります。
『死者は裁判を受けるのです。裁判長は閻魔様。七日ごとに生前の行いを事細かく取り調べられるのです。大きな鏡があって、そこに生前の姿がビデオテープのように映し出されるといいます。善を行ったか、どんな悪行をしたかと詳しくチェックされ、それをノートに書き写していくわけです。そのノートを「えんま帳」というらしい。
厳しいその取り調べをできるだけ和らげ、手助けするためにお経を読むのだそうです。そうして七回の裁判を経て、四十九日目に判決が下されるのです。あなたの人生は善行を尽くしたから極楽へ行きなさい。あるいは悪を重ねた人生だから地獄に落ちなければならないと。そこで死後の行き先が定まるのであるという。』

これはどのように受け止めるべきでしょうか。いろいろと調べていくとどうも中国で編纂された経が元であるらしいのです。仏教ではなく道教の影響らしいのです。
しかし、私たち仏教徒は仏教儀式として受け入れて、現に行じております。そしてその前提として「死者は迷うものである」という了解があります。

ところで、人が人生を果たし遂げて命終するということは、むしろ「迷いを離れる」という意味をもっていると思います。「おれが、私が」と我に執着をしているのは死者ならぬ生者の私でありましょう。

そうしますと、大切な人を失ってその悲しみ苦しみの中、行き先が定まらず家の周りをうろうろしているのは、実は他ならぬ生者、この私ではありませんか。初七日から四十九日まで裁判をうけるのは、悲しみに沈んでいる私でありましょう。そして裁判長は閻魔さまならぬ、教え・経典ではありませんか。

教えにあうことによって、この私がこれまでの人生を振り返り、照らし出される期間が四十九日でしょう。そうして、満中陰を迎えて私の判決が下されるのです。「これまで通り、迷いを迷いとも知らずに一生涯を空しく終わらせるのか、それとも西に向かって往生極楽の道を歩むのか」という決断を迫られるのです。

人はかけがえのない身近な人を失った時、その悲しみをのり越えて新たに立ち上がって行くには、およそ五十日ほど必要なのでしょう。
中陰とは、先に往った人が私に手渡し残してくれた、大切な日々ではありませんか。

南無阿弥陀仏