今日は、去年間に合わなかった子ども食堂の申請を市役所に提出させていただきました🙏😊これで、少しは運営が楽になり安定するといいな😌
南無阿弥陀仏

今日は、去年間に合わなかった子ども食堂の申請を市役所に提出させていただきました🙏😊これで、少しは運営が楽になり安定するといいな😌
南無阿弥陀仏
「ほんとうにしたいことがあったらそれをやれそれで死んでも悔いなかろう」暁烏敏
別院時代、当時の御輪番から
「いきいきと行きていける世界があるなら辞めなさい」
と同じような事を言われ、本当にいきいきと生きて行ける世界とはなんなのか。それから八王子へ来るまで本当に紆余曲折がありました。
開教所願入寺を念仏道場として、毎月28日の法話会「ニッパチの日」を開催しております。西八王子駅が最寄りで西八にかけたのです。
昨日の暁宇忌は一つの道標になりました。有難う御座いました。
南無阿弥陀仏
今日は法務の関係で、少し遅れますがご縁あり参加させていただきます🙏
南無阿弥陀仏
ある先生は、お参りに行くと毎月いるはずのお宅がたまた留守だったそうです。僕なら、すぐ次のお参り先へ移動するところですが、その先生は玄関先でドアに向かってお内仏の方へ「正信偈」のお勤めをされたそうです。僕はその話を聞いた時、とても恥ずかしくなりました。「正信偈」の歴史の長さと深さと重さを感じる衝撃的なお話しでした。それは、「正信偈」の意味を理解して分かる大切さではなく、理屈抜きで忘れていた大切な何かを教えていただいた出来事でした。
感動とはすべての意味が分かってから感動するのではありません。ビートルズの曲も英語の意味をすべて理解してから感動することはありません。理屈抜きで感動します。そして、そこから少しずつ何を伝えようとしているのか意味を学んでいくのです。
「お磨きの方法もいろいろあると思いますが、商品名もその働き、効能を表している。ピカール事態が光ってるわけではありません。白い液体のワックスですから。ピカールの働きが本来の輝きを取り戻すのです。ひかると言う実験の効果があればこそ、なるほど、ピカールはピカールであったと言えるわけです。」百々海真先生
「事実体験が先、名前は後からです」
と言うことで教えていただきました。
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講習から帰ってきてすぐ忘れないように実践。偉いですね😌
南無阿弥陀仏
月刊住職5月号
寺子屋の一環として、始めた坊主バーが掲載されました🙏
南無阿弥陀仏
竹中先生は、
「阿弥陀堂は念仏相続の場、御影堂は法義相続の場」
と仰っております。そして、
御影堂門(大門)は、「正信偈」の「如来所以興出世、唯説弥陀本願海」を表現(仏)し阿弥陀堂(の内陣)は、その本願海(法)を表し、御影堂は宗祖親鸞聖人を中心にした「僧伽」(僧)を表しています。そこに、浄土真宗の仏・法・僧の三宝が表現されているのです。
という説明を昔、補導さんからお聞きしました。
その意味で、御影堂門上の釈尊・弥勒・阿難の三尊像は「大経」の会座を表現しているところから、釈迦出世の本懐を表現しているのです。
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『もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちに圧しかかっているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできません。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です』。安田理深師
『浄土真宗は人類に開かれた教えです。ですから、誰が聞いてもよろしいのです。真宗門徒だけの親鸞聖人ではないのです。すべての宗教の地下鉱脈なのです。仏教徒だけではなく、キリスト教徒でも、イスラム教徒でも真宗に遇わなければなりません。
同朋会運動は、門徒を増やしたり、強くしたりするための運動ではありません。キリスト教徒が親鸞聖人の教えを聞いたら、キリスト教をやめて真宗門徒になったり、仏教徒になるのではないのです。
キリスト教徒が浄土真宗の教えに遇うと、キリスト教がより深くいただけるのです。イスラム教徒が、真宗門徒に改宗するのでもありません。イスラム教がいよいよ深く頷かれるのです。そういう「生まれて生きる」という一切衆生に開かれた教えが浄土真宗なのです」と。
私たちは、一宗一派という狭い中をウロウロしていたのではないかと思います。御遠忌を契機に、閉じられた殻を破っていかなければなりません。 (藤田輪番)
北海道教研は、
「教研は布教使を育てる場ではない。1人の念仏者を生み出す場である。」
この、意味を最近考えさせられております。
北海道でも法話研修会がありましたが、何故教研は布教使を育てる場ではないのか。
「あなた自身、念仏者ですか?自分は、念仏をいただいてないのに、念仏を人に勧めたり、お布施を頂いてないですか?ということを問われるのが教研だと思います。」
食う為に坊さんするなと言う、先生の言葉が響いておいります。
南無阿弥陀仏
ちいちの華のホームページより。
真宗大谷派の立華は池坊の流れを汲んでおります。
「私たちの仏華研究会「ちいちの華」では、立花の基本である池坊流の華法をふまえつつ、微妙の法を説きたもう如来の”はたらき”として「深山流渓」の立て方を旨として研究を重ねております。
「深山流渓」とは、如来の深い心が渓流から大河となって、私たちの上に流れ届くという意味で、いわゆる盛り花、投げ挿しといった普通の生花とは異なり、真に松・桧・竹・桜等を用い、役枝には四季折々の木花をもって、直立型を避け”深さと流れ”のある立調に心掛けております。 また、古来の示教に則り、トゲのあるもの、つるのあるもの、異臭の漂う花材はご遠慮をして「仏華にふさわしい仏華」の研究をいたしております。」
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