機法一体
お陰様で、モデルナアーム(腕の痛み)は少しずつ収まってきております。
それにしても、私は最近考えている事があります。
阿弥陀さんは、何もしてくれない。ただいらっしゃるだけ。
そして、光輝いている。
それは、あなたは居るだけで光輝いているんだよと教えてくださっているのではないだろうか。
お金があっても無くても、健康でも病気でも、友達がいてもいなくても、思い通りになってもならなくても、今いただいている命そのものは光輝いているのだよと。
その事に気づかない。罪悪深重であるがゆえに目が覚めない。
誰かに褒められた時は、思わない事はないが、毎日私は光輝いてますとは中々言えない。
住職もただ居るだけ。居るだけで安心と思われるくらいでなくてはダメなのだろう。
今日も阿弥陀さんは、何もしてくれない。ただいらっしゃるだけ。そして、光輝いている
あなたもわたしも機法一体の南無阿弥陀仏
札弦商會
今日、
関西の読売テレビから取材のTELが来ました。
今週の金曜日に
読売テレビ 放送 関西ローカル 16時50分 かんさい情報ネットten
と言う番組で、民泊になった願入寺(札弦商會)が放送されるので、お時間があればぜひ見ていただきたいです。
あっ!と言う間に終わるそうですが
関東では放送されないので残念です。
https://www.ytv.co.jp/ten/corner/
南無阿弥陀仏
お彼岸最終日
南無阿弥陀仏
阿弥陀如来
夜の阿弥陀さんもいいですね🙏
南無阿弥陀仏
お彼岸お中日
風船唐綿
1人からはじまるお彼岸
南無阿弥陀仏
ハイビスカス
お彼岸にハイビスカスが咲きました。
明日までもってほしいです🙏😊
南無阿弥陀仏
小さな掲示板
「自己を苦しめず、他人を傷つけない言葉のみを語れ。」
『スッタニパータ』(『ブッダの詩I』講談社185頁)
言葉の力は絶大です。言語が文化を形成し、言論が歴史を動かした事実もさることながら、私たちの日常においても、言葉の力はあらゆるところに見受けられます。誰かの言動に深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。無作為に放たれた言葉が私に刺さり、生きる気力まで奪われてしまうこともあります。その一方で、確かな言葉に勇気を与えられることもあります。つまり、言葉には言葉以上のものが宿るのです。
仏教は古来より、言葉の力に細心の注意を払ってきました。言葉が私にもたらす作用を注視し、「行動」や「思考」と並んで、「言葉」が自分を作り上げると考えてきました(身(しん)口(く)意(い)の三業)。なぜなら、この三者は相互に深く結びつき、私が考えること、話すこと、行動することが一体となって、「自分」という存在を練り上げるからです。また、発話行為というものは当人の内的な成熟度を如実に表しますが、言葉は私の内面から表出したものであるにもかかわらず、私にはその力を制御することができません。言葉は、発話者の予想を超えたはたらきをするのです。
したがって、標題のことばは「言葉づかいに気をつけよう」という道徳の話に留まるものではありません。同じ経典に「ひとは生まれると口に斧(おの)が生える」とも説かれるように、悪意ある言葉は文字通り他人を傷つけます。そうした言葉は、発言した後に「しまった」と後悔をもたらし舌禍を招くだけでなく、やがて内側から自己を侵食し(思考と行動に影響を及ぼし)、少しずつ自己を苦しめます。そして何より、悪意ある言葉は人に刺さったまま容易には抜けず(消えず)、人の尊厳を踏みにじり続けるのです。
特定の人を攻撃することで耳目を引こうとする近年の言論活動を見る限り、この社会には暴言や罵詈雑言を求める気分があると言えます。また、言葉が次々と消費される流れに比例し、たったひとつの失言からその発言者の人格までを否定しようとする態度も見受けられます。相手の言葉尻をあげつらい、その言葉の背後にいる人間の姿を見ようとしない傾向のことです。何事につけ社会に向けて発言することが容易になると同時に、言葉が軽視され、言葉の重みが見失われつつある状況の只中に、私たちは立っています。
こうした点から、自身が語ろうとするその言葉に、より一層の注意を払う必要があることは間違いありません。今一度、「私は私が語る言葉の力を完全には制御できない」という事実を思い起こす時が来たのではないでしょうか。
フードドライブ
先日、市の健康福祉局生活支援課の方とお話しする機会があった。
毎日、生活困窮者自立支援の為にあちこち飛び回っておられる方だ。
お話しを伺うと、子供食堂に来られる親子連れの方々は裕福な家庭が多く友達同士が多いそうだ。託児所感覚なのだそう(一概には言えないと思うが…)
本当に困ってる子供達は、家から出られないらしい。子供食堂に行くと貧乏だとバレるからだ。フードバンクにも手を出せない。
子供1人で、子供食堂の場所を調べて歩いて行くだろうか。
フードバンクの場所や炊き出しの場所を調べて歩いて行く子がいるだろうか(ゼロではないと思うが…)
家庭にある食べきれない食品などを持ち寄り、フードバンク団体を通じて生活困窮者や、児童養護施設、母子生活支援施設などの福祉施設に寄付をする事は良いと思うが、本当に困っている人達の家を一軒一軒回って訪ねている方からの現実と理想のギャップの訴えをどう受け止めて行けば良いのだろうか。
以前先輩と同じような事を話しあった。
お寺の勉強会や、研修会は強化事業ではなく、消化事業になってないか。
俺達はこうやって勉強会に参加出来る余裕がまだある。有り難い事ではあるが、勉強会や研修会の存在自体知らないご門徒さんのお陰で成り立っている。
本当に困ってる人達はお寺ではなく、役所へ行くのではないか。行ける人はまだいい。行けない人はどうすればいいのか。
僕があえて言う必要もないし、言わない必要もないのであるとふと思った。
人を開教するより、まず自分自身を開教しなければ🙏
南無阿弥陀仏
普通袴(道中袴)
色目等に規定はなく、縞、無地いずれも随意であって地質も夏、冬の別により、
仙台平、厚地、絽、紗等いずれでもよい。間依の下に限り着用することになっている。