新聞をヨム日に。
新聞のコラムを読んで、ハッとしました。
「毎回落ちてくるエサ」は、安定していて安心します。
でもそれは一方で、
自分で考えずに“流されているだけの安定”でもあるのかもしれません。
気づかぬうちに、「大きな魚のえさ」になっているとしたらどうでしょう。
主体性を失い、流され、判断できず、受け身のまま。
そして、誰かに消費される側になっていく。
それを仏教では「無明(むみょう)」といいます。
わかったつもりでも、実は動かされている。
そんな迷いの中にいる姿です。
気づけば、SNSで一日が過ぎてしまう自分。
たまにはそんな日があってもいい。寝込んでましたからね。
でも、ずっとそれでいいのかと問われた気がしました。
「大きな魚のえさになる」とは、
自分で考えずに生きることで、誰かに消費される存在になること。
そしてまた、自分も誰かを消費する側となり、
その世界をぐるぐると巡っていく。
ふと、そんなことを思いながら、スマホをいじっております🙏



























