質問

毎月の法話会を熱心に聴聞されている御門徒さんから質問を受けた。

「YouTubeで日蓮宗のお坊さんの話を聞いて、『法華経』とはどんな教えなのか興味を持ちました。浄土真宗では法華経をどのように捉えているのでしょうか?」

え?法華経ですか…。

真宗の僧侶である私にとって専門分野です!!とは言えず、以前教えていただいた先生の言葉を思い出した。

法華経とは、「すべての人が仏になれる」と説かれた尊いお経である。
しかし、その教えを本当に生きることは容易ではない。
それは、お医者さんの学会発表を専門知識のない者が聞くようなもので、何を言っているのかさっぱりちんぷんかんぷん分からないほど難しい。

そして、

「法華経は二階へ上がる道を示してくださる教え。しかし私たちは、その階段を上り切る力を持っているだろうか。いや、階段は目の前にありながら、一歩も踏み出せないのが私の姿ではないだろうか」

と話されていた。

法華経の安楽行品には、

「菩薩は他家に入るとき、小女・処女・寡女などと語らず、また五種の不男の人と親しく交わってはならない」

という一節がある。

現代語訳に、

「処女や未亡人と話してはならない、女性を見て喜んではならない」

と、訳してあった。

しかし、そこに説かれているのは、煩悩に振り回されることなく生きよ、という厳しい求めではないだろうか。

親鸞聖人は、そこをもっと根本的に見つめられたように思う。

異性を見て心が動くなと言われても動いてしまう。

怒るなと言われても怒る。

慈悲深くあれと言われてもできない。

だから問題は、「教えが立派かどうか」ではなく、

「その教えを生きられない私は、いったい何者なのか」

ということではないだろうか。

法華経の高さに照らされて、自らの姿が知らされる。

そこに親鸞聖人が歩まれた道があるように思う。

いい質問をいただいた。有難うございました🙏

娘へ

今日は世界一周の日。朝ラジオでHSP(繊細さん)の話をしていた。HSPとはHighly Sensitive Personの略で、人一倍繊細な気質をもって生まれた人という意味だそうだ。世の中には繊細な人もいるし、そうでない人もいる。両方いてこそ世の中は回っていくのではないか、と締めくくりラジオは終わった。

 世界一周の日とは、一切の生あるものを認めるということがなければ、世の中は回っていかない日ということなのかな。

 そして今日は父の日でもあり、大安吉日でとてもいい日だとも言っていた。父の顔を知らない私にとっては少し複雑な日でもある。世間が「お父さんありがとう」と盛り上がるほど、少し胸がチクリとする日でもある。

 ―親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず―

 しかし親鸞聖人は、現世の父母だけでなく、一切の生あるものは皆、深い因縁によって結ばれていると教えられました。世界が回るということは、私一人の力ではなく、数えきれないご縁によって生かされているということなのでしょう。

 娘へ。

 人生には、先が見えず不安になる時があります。どの道を選べばよいのか、立ち止まってしまうこともあります。

 そんな時、私はこの言葉を思い出します。

「道」

此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ

危ぶめば 道はなし

ふみ出せば その一足が 道となる

その一足が 道である

わからなくても 歩いて行け

行けば わかるよ

(昭和二十六年十月『同帰』所載)

 お父さんも、わからないまま歩いてきました。振り返れば、その一足一足が道になっていました。

 だから、焦らなくていい。立派にならなくてもいい。

 ご縁に生かされながら、自分の歩幅で一歩ずつ歩いていけばいい。

そして今日は、父の日だけではなく、夏至や国際ヨガの日、がん支えあいの日、キャンドルナイトの日、仕事も遊びも一生懸命の日、スナックの日、えびフライの日など、本当にたくさんの記念日が重なっている日でもあります。

 人それぞれ大切にしているものが違うように、一日にもいろいろな意味があります。

 繊細な人もいれば、そうでない人もいる。父を思う人もいれば、私のように少し複雑な思いで今日を迎える人もいる。

 それでも、それぞれがそれぞれの場所で生きているからこそ、世界は回っているのでしょう。

今日という日が、あなたにとっても、自分の歩む道を少しだけ見つめる一日になりますように。

研修会

終了者研修会へ参加して2週間が経ちました。

果たして、

私はいったい何を終了したのか。何も終了してないのではないか。

まだ、何も始まってもいないのではないかと。いつから、何が始まったのか。無始以来、常に流転し出離の縁がない煩悩具足の凡夫は始まっております。

そして、研修会に参加して違和感を感じた事がありました。

それは、研修会は楽しいと口にされている。今日を楽しみに来たと。明日も楽しみにしてると。

僕は楽しい研修会なんかあるのかなと思います。宮城先生は、師は眠らせない存在。友は酔わせない存在と言われます。

今まで、泣く泣く教えを聴いて来ました。それは、楽しんで聴いてきたわけではありません。

うちのお寺では、毎月法話会、子ども食堂、坊主バーをやっております。

先月の28日のお朝事の御文はたまたま一条八通でした。

吉崎へ来て3年が経ち、人が大勢集まるようになった。

しかし蓮如上人は、

「念仏の信心を決定し、往生を願わない者はここへ来る必要はない。今後は入場を許さない」

と、その御文には書いてありました。

北海道から出てきて8年。

八王子へ移転して3年。

法話会に、

「来てくださるだけで有難い」

入場規制など、とても考えられません。

しかし、よくよく考えてみると、

自分の話を聞いてほしい。

自分を認めてほしい。

自分の自慢話をしたい。

そういう思いでお寺へ来ている御門徒さんもおり、法話最中に話し出す方もいて、法話が中断する事もあります。注意すると来てくれなくなるのではないか。それは、門徒さんをお客さんとして見ているのではないか。

しかし、

何より私自身もお寺を利用して、自分を認めてもらいたいと思っている。

そんなことを考えさせられました。

「誰のためのお寺なのか」

「何のための法話会なのか」

今回の研修会で、改めて問い返されたように思います。

果たして、師は酔わせない、友は眠らせない研修会や、お寺になっているのか。

今の時代、そのような場は敬遠されるのかもしれません。しかし、だからこそ、師は眠らせず、友は酔わせない場でありたいと願います。

ボーっとする日も大切

梅雨の晴れ間を120%活用

夜もうどん朝もうどん

キャンプで食べるどん兵衛って、なぜか家の1.5倍くらい美味しく感じる

・川のせせらぎ
・焚き火🔥
・うどん
・誰にも急かされない時間

戻ったらまた頑張ろう

今は思い切り「何もしない時間」を味わう

お焚き上げ

うちは、お預かりした白木のお位牌は三回忌までお預かりしたあと、お焚き上げさせてもらっております🙏

三回忌を過ぎても引き取り手のない白木位牌を、きちんと管理し続けておられる願入寺さんの姿勢は、ご遺族にとっても有難いことだと思いますと言われております🙏

南無阿弥陀仏

町内会

今年から町内会の組長さん

会費集めなきゃ…

雨降りは長靴に限りますね😌☔️

関東布教の聖地

今日はお参りが近くであったので、念願の稲田の西念寺へ🙏
感動して涙が出そうになりました🥲🙏800年間あなたが来るのをずっと待ってましたよと親鸞聖人が呼びかけてくれたように思います🙏

【本尊について】

(本尊)
第九条 本派は、阿弥陀如来一佛を本尊とする。

私たち真宗門徒のご本尊は南無阿弥陀仏です。本尊が南無阿弥陀仏だと、名詞と動詞が入り混ざった言葉で、手を合わせる対象物としては何か違和感を感じます。
先日、ある先生のご法話を拝聴していましたら、皆さんお気付きですかと。私は始まってからずっと、本尊は阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏ですと言っていたのですよと。

なぜかわかりますか?と

真宗大谷派の宗憲を見てみますと、第9条に本尊についてはっきりと「阿弥陀如来一仏を本尊とする」と謳っています。日本の憲法9条は戦争の放棄です。大谷派の9条は本尊についてです。大事なところは一緒ですね。
なぜ阿弥陀仏が本尊ではないのかというと、阿弥陀さんは阿弥陀さんでも、木像の阿弥陀さんのことではありません。蓮如上人が言われましたが、木像より絵像、絵像より名号がなにより大事ですと。他宗では逆で、名号より絵像、絵像より木像を大切にされています。でも、木像や絵像はあくまでも、方便法身の尊形です。みなさんの家にある阿弥陀さんのお掛図の裏に必ず方便法身の尊形と書いてあります。もし書いていなければ偽物ということになります。一度確認してみてもらいたいと思います。方便法身の尊形とは阿弥陀さんのおはたらきは、いろもなしかたちもましまさないおはたらきつまり、南無阿弥陀仏ということではあるけれども、あえて形に現したということです。そして、その方便法身の尊形であるお木像は木でできていますから火がつけば燃えてなくなります。燃えてなくなるようなものは本尊ではありません。しかし、私達は何か対象となるものがないと拝めないということがありますから、仮のお姿とって木像という形にしなければならなかったのです。ですから、どこかにお木像のような金ぴかに光り輝いている阿弥陀さんがいらっしゃるということではありませんし、仮の姿ですので方便法身ですからご本尊ではないということです。そのお姿は、つねに一歩前に歩みを進めて私たちにお念仏申せ、我が名を称えよとはたらき続けておられる姿です。その呼びかけに応えた言葉が南無阿弥陀仏なのです。阿弥陀さんも呼んで欲しいんですね。みなさんも呼ばれたら嬉しいですよね。僕も名前を呼んでもらえたら嬉しいです。
では、なぜ宗憲には南無阿弥陀仏ではなくて「阿弥陀如来一仏を本尊とする」と書いてあるのか。僕はそのことに何の疑問ももちませんでしたし、今まで考えたこともありませんでした。そして、ある時その事に疑問を持たれた人がいました。それは、推進員の人達です。前期講習、本山で後期講習を受け、熱心に聴聞しておられる推進員の方がある研修会で質問されたことがありました。本尊は南無阿弥陀仏と今まで聞いてきましたが、宗憲には「阿弥陀仏一仏を本尊とする」とありますどうしてですかと。そういう疑問は普段お寺さんは考えていないんですね。質問された先生も困ったと言っていました。その場では答えられなくて、その質問から約10年くらい考えたと言われました。そして10年たってやっと気が付いたとおっしゃっていました。それは、「阿弥陀如来一仏を本尊とする」ということがそのまま南無阿弥陀仏ということだというのです。なるほど言われてみれば確かにその通りなのかなと思います。
では、お西さんの方はどうかといいますと、もちろんお西さんの本尊も「阿弥陀如来一仏である」ということは一緒です。お西さんの宗憲も同じように書いてあります。これが違っていたら大変です。ところが、平成19年に西本願寺の最高機関である、宗議会で本尊についての項目が変わってしまいました。「阿弥陀如来一仏である」に変わりはありませんが、阿弥陀如来のあとに()で南無阿弥陀仏が新たに加わったのです。これは大変なことです。本尊という仏教で最も大切な、根本に尊ぶべきものが変更されたのです。本来変わらないはずの本尊の表現に手が加えられたということに、私は大きな驚きを感じました。本尊は本来コロコロ変わってはいけないはずなんですがお西さんでは変わってしまいました。大谷派は変わっていません。むしろ変えてはいけません。南無阿弥陀仏を付け足してしまうと話が変わってきてしまうからです。なぜそのような改正が行われたのか、私にはまだ十分理解できていません。それなりのちゃんとした理由があれば納得しますが、一度、お西の先生にお聞きしてみたいと思います。
   
御文に、
「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏とふかくたのみまゐらせて」

とあります。
阿弥陀仏とふかくたのむ。南無阿弥陀仏とふかくたのむではありません。
阿弥陀仏とふかくたのむと言うことが、南無阿弥陀仏なのです。だから、ご本尊は南無阿弥陀仏なのではないかな~と今はそう受け取っております🙏

と、休みの日にニッパチの法話を考えてました〜。
やはり1カ月は早過ぎる😹