食べ物として、いのちをつないでいく、いのちがいのちとして保たれていくことを仏教では触っていいます。食べるということは、いのちがいのちとして保たれていく一点です。ただ食べるだけでなくて、場所に触れて食べる。場所に触れたことが食べ物だっていうことです。触食っていうんです。つまり、場に触れている、その場に触れたことによって起こす、さまざまな感じ方です。受け止めかたっていいますか。感じたことが、実は私にとって、私を私として成り立たせてきたというか。別な言葉で言えば、いろんな人に出会いながら、出会った人に育てられながら、教えられたり、育てられてきて、私が私になってきたんだと思います。
お寺さんというのは、出来上がった所に座る。ほとんど、出来上がった場所に住職っちゅうのは座る。若さんの時代からそういうことやってるもんだから、横着になる。そういう感じがします。お茶一杯出す背景というか。そこまでのものがらがやっぱり、薄いんです。そういう体験が薄いから、法事に行ったってぎりぎりに行くでしょ。人のことではない、僕がそうだから。自分でお茶入れたことないもんな。出来上がったとこ行って、周りを動かすことになれきってるとこがあってね。主体的に動くということは、なんか場を感じないと、動けないと思います。そういうことが、何か、僕らの中に欠けているというか、欠如していると部分だと思います。自分が動かんで、全部まわりがやってくれるという体制のなかで、動いてるっちゅうかな。それは、やっぱり場に会いながら、人がなかなか感じられないですよね。
報恩講でおばあちゃんが、何もいわずに布団ひいて寝てた。ということは、おばあちゃんも疲れ切って帰っていったっちゅうことなんですよ。あんまりそういうこと考えないもんな。自分が疲れてるのはよくわかるわ。自分が疲れてるのはよくわかるんだけど、ご門徒さんが手伝いにきて、疲れ果ててというか、おそらく心地よく疲れて帰ったんだと思います。そういうものが、見えなくなっているんだと思います。
ただ一生懸命作ったんでない、ごたごたごたごたしながらの一杯の五目めしがでてきてるっちゅうところまで、なかなか見えないですよね。場を感じるということは、そういう場所に触れていく場所なんです。その場所はけっして抽象的なことじゃなくて、具体的な生活していることですから、人間のまじわりですよ。(九谷輪番十七組婦人連絡協議会2002年12月6日)
ニッパチも子ども食堂も、報恩講も場を感じ、場に育てられながら、緊張しながら、汗かき恥かき頭かきしながら、一生懸命頑張りたいと思います🙏

























