剪定

ご近所さんが、ご近所さんのお庭の剪定をしている。
そんな何気ない光景に、ふと心が和みました。

特別なことではないけれど、
こうして自然に手を貸し合う姿に、
大切なものがあるように感じます。

剪定した枝を見ていたら、
「しきみに似てるから、いつでも使っていいよ」と。

人の手から人へと渡るものの中に、
あたたかい気持ちも一緒に添えられているようでした。

こういうご縁に支えられて、
日々が成り立っているのだなと感じます🙏😌

アインシュタイン

アルベルト・アインシュタインに、こんなお話が伝わっています。

教室で黒板にかけ算を書いていきました。

ほとんどは正しく書かれていましたが、
最後の一つだけ、わざと間違えたのです。

すると生徒たちは、その一つの間違いを見て笑いました。

そのとき彼はこう言います。

「私は9つ正しく書いた。
しかし誰もそこを見なかった。
ただ1つの間違いだけを見た。

これが社会だ。」

この言葉は、他人のことだけではなく、
実は「私自身の姿」をも照らしているのではないでしょうか。

私たちは、人の間違いにはすぐ気づきます。
しかし、その人が積み重ねてきた歩みや努力には、なかなか目が向きません。

それは同時に、
自分自身に対しても同じではないでしょうか。

できていないことばかりを見て、
できていることを認めることができない。

仏教では、私たちを「煩悩具足の凡夫」といただきます。

つまり、間違いをなくすことのできない存在だということです。

だからこそ、

「間違わないように生きる」のではなく、
「間違いの中で問われながら生きる」

そのような生き方が開かれているのではないでしょうか。

「間違いはプロセスの一つである。
何もしない人だけが、間違いをしない。」

この言葉を聞くとき、

私はこういただいています。

「動きなさい」ということではなく、
すでにご縁の中で「動かされている身である」ということ。

私自身、開教所を開くとき、
大きな不安がありました。

それでも一歩踏み出したのは、
自分の力というよりも、
ご縁によって動かされてきたのだと感じています。

その中で、法話会や子ども食堂、坊主バーという形で、
さまざまなご縁をいただいてきました。

うまくいかなかったこともたくさんありますし、
今もなお手探りの中にあります。

しかし、その一つ一つが、
「私とは何か」を教えられる出来事でもありました。

「今さら」ではなく「今から」でもなく、

「今、この私が問われている」

そのように受け取ることもできるのではないでしょうか。

これからの歩みの中で、
これまでの自分の姿が、あらためて見えてくるのかもしれません。

誰かの間違いを笑うのではなく、
その歩みを共に受け止めることができる私でありたい。

そして、自分自身もまた、
間違いの中で問われ続ける身として、生きていきたい。

そのように思わされるお話であります。

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ。」
―『蓮如上人御一代記聞書』

昭和法要式が破れて、どれくらい経ったでしょうか。
ここ数ヶ月のことです。

本尊も今は掛けるものではなく、置く形になりました。
「掛けやぶれ」という言葉も、どこか遠く感じる時代です。

けれど、
本当に“破れている”のは、何なのでしょうか。

形なのか。
それとも、私の受け取り方なのか。

ふと外を見ると、
大きな木が、新緑を広げていました。

「この木なんの木、気になる木」なんて思いながら眺めていると、
その胸元には、小さないのちがひとつ。

どこからやって来たのだろう。

どちらも、同じように生きている。

小さないのちも、
大きな木も、
そして、この私も。

ちっぽけな人間だからこそ、
大きなものに心を動かされ、
小さなものに気づかされるのかもしれません。

「よみやぶる」とは、
ただ読んで破ることではなく、
自分の思い込みが破られていくこと。

今日もまた、
少しだけ、やぶられていきたいと思います。

育てられる

「“いい人になろう”としているうちは、見えないものがある。」

かつて信國淳先生は、こう言われました。

「わかってもわからんでもいいから、お念仏申しなさい。そして、お念仏によって育てられなさい。」

では、「育てられる」とはどういうことでしょうか。

私たちは、すぐに勘違いをします。

仏教を学べば、

もっと賢くなれるのではないか。
もっと立派になれるのでなないか。
もっと優しい人になれるのでなないか。
人よりマシな人間になれるのではないか。

でも、それは本当に
「育てられる」ということなのでしょうか。

日々の出来事を通して、

「あなたは、どう生きていますか」
「煩悩具足のままのあなたで、生きていますか」

と生活を通して、如来の問いかけを聞く者となることであり、お念仏は、
“いい人になるための道具”ではありません。

もちろん、清く正しく美しくなれる事には越したことはありませんが、どんなに変わろうとしているつもりでも、
本当は、自分から目をそらしているだけかもしれません。

うまくやろうとして、
ちゃんとしている“つもり”でも、

結局いつも、
自分の都合で物事を見て、
自分の都合で人を判断して、
自分の都合で生きている。

その私が、ここにいる。

ごまかしている私を、
言い訳している私を、
そのまま照らし出すはたらきです。

「あなたは、それでいいのか」

そう問われ続けているのに、
聞いていないふりをしているのも、この私です。

だから——

まずは、このどうしようもない私を、
そのまま引き受けて生きていく。

強くなるためでも、
誰かに勝つためでもない。

そこにしか、
念仏に育てられる道はないのだと思います。

南無阿弥陀仏🙏

御供えもの

いただいたお供物は、まず仏さまへお供えいたします🙏

先日、ご法事でのこと。
仏花を持参された施主さんが、「あれ?どっち向きだろう」と戸惑われていました。

とても大切なことだなと思いました。

一般的には「仏さまに捧げるもの」と思われていますが、
浄土真宗では少し受け取り方が違います。

もし本当に仏さまに向けて捧げるのであれば、
仏さまの方に向けて飾るはずです。

しかし実際は、お花もお供物も、私たちの方に向けて供えられています。

それは、仏さまが私たちに何かを伝えようとしているからです。

たとえばお花。
どんなに美しく咲いても、必ず枯れていきます。

その姿を通して、
「諸行無常(すべては移ろいゆく)」という道理を教えてくれています。

だからこそ、浄土真宗では造花ではなく生花を大切にします。

また、蝋燭は智慧の光、
お線香は平等のはたらき、
御仏飯は“いのちをいただいて生きている”ということを表しています。

そして大切なのは「お下げすること」。

お供えを下げていただくということは、
仏さまから“いのち”をいただくということでもあります。

上げっぱなしにするのではなく、
きちんといただくところまでが、お供えの意味です。

だからこそ、
上げること以上に「下げること」が大切なのです🙏😌✨

帰る場所

「あれ?何しに来たんだっけ?」

この感覚、ありませんか?

隣の部屋に何かを取りに行って、
行った瞬間に忘れる。

私はしょっちゅうあります😄

でも不思議なことに、
元いた場所に戻ると、思い出すことがあるんですよね。

もしかすると私たちは、

もっと大きなことで、
同じことをしているのかもしれません。

「おぎゃー」とこの世に生まれてきた時、
本当は何かを願って、何かを求めて生まれてきたはずなのに、

気づけばそれを忘れて、
目の前のことに追われて生きている。

「私は何のために生まれてきたのか」

その問いを持ちながらも、
戻る場所も分からず、迷いながら生きている。

その“戻る場所”が、
お寺であり、手を合わせるお内仏の前なのだと思います。

今日は御門徒さんがお参りに来てくださいました。

特別なことがあるわけではなく、
ただお参りに来てくださる。

その姿に、
「戻る場所」がここにあることを、改めて教えていただきました。

お寺は、何かがあった時だけ来る場所ではなく、
「なんとなく来てしまう場所」であってもいい。

静かな時間の中で、
少し手を合わせて、少し心が落ち着く。

そんなひとときになっていただけたら嬉しいです🙏😌

隠れ念仏

どうも、坊主バーの寺子屋〜ひよこ〜です🖖

最近は、知る人ぞ知る存在になってきて
隠れ念仏のように、ひっそりとやっております😌

深夜食堂でも始めようかな。
それとも、探偵はBARにいるか。

…いや、坊主はカウンターにおりますが😄
(探偵がいたら逆に入りづらいですよね笑)

映画にすぐ影響される体質ですが、
仏教もまた、出遇って影響を受けていくもの。

されているのか、いないのか。
それに気づけなくなったら、少し寂しいですね🙏

気づけば、2年目に入りました。
これからも、ひっそりと続けていきます😌

ご近所さん

昨日は自宅BBQ🍖

ご近所さんがお仕事帰りに通りすがって井戸端会議。

明日、健康診断でお酒飲めないと言っていたけど、焼いたお肉🍖を持って行ってあげました。めっちゃ喜んでたから嬉しいなと思いました😊

ホッとけなかったのです😄

草むしり

昨日は芝桜計画のため朝から草むしり。
綺麗さっぱりになりました。あとは、土おこして肥料やって芝桜を植えるだけですね😊いつになるかな?
住職の仕事は草むしりが仕事です。
ある別院の御門徒さんで、週一回別院の玄関の掃除をされている方がおります。別院は本山の出先機関だから、奉仕団に来ていると思ってされているそうです。そして、お参りされる方に気持ち良く聞法をして欲しいのだそうです。
別院時代を振り返ると、毎朝草むしりされていた近所の御門徒さんがおりました。誰に頼まれたわけでもなく、率先して毎日草むしりをされていました。ホッとけなかったのでしょうね。
僕もホッとけないと思われるようなお寺になりたいと思います😊
立派な本堂とか、大きさとかじゃなくて
「なんかここ気になる」
「なんか関わりたくなる」
っていう場所づくりが出来たらなと思います😌

昨日もそうでしたが、草むしりをしているといい出会いがあります。通りすがりの人が声をかけてくださり本堂にお参りしてくださるのです🙏😌毎日草むしりしなきゃ😹