新聞の川柳に「不惑無理四十どころか死ぬまでも」というのがありました。よく世間でいう四十にして惑うことのな生き方をするといことでしょう。しかし、この句を投稿された方は実際はそうはいかないというのです。死ぬまで惑って、苦しんで悩む原因・もとは何であるかを教えて下さるのが仏さまのみ教えなのです。
私共の知恵は分別智、分別する知恵といいます。それは自分を立てるために、自分と他人、自分と他なるものを分ける、区別する知恵によって行動しているのです。
この分別智をよりどころとして生きる限り死ぬまで惑うのです。この分別智をよりどころとして生きる人間の在り方を親鸞聖人は罪福信と押えて下さいます。
罪というのは邪悪なるもの、不吉なるものということで、自分にとって現存者合の悪いもの、将来都合が悪くなりそうなものを排除し取りのぞこうとする信を罪だというのです。自分に都合の悪いものを取りのぞく「自」取りのぞかれる「他」を分けるのです。
取りのぞくものと取りのぞかれるもの、カのある者と力のない者、他を排除し抑圧してゆく世界を作りだす信を罪だといわれるのです。
次に福とは自分にとって妙なるもの、快よいということで、これを追い求めていく信だといわれます。これは自分に都合の良いものは人であれ、物であれ思いを叶える為ならばすべて利用しようとする信です。
この罪福信をよりどころとして生きる限り死ぬまで安らぎはありません。なぜなら思い通りにならないものを排除するということは、いつでもこの私が排除される存在になるということです。又すべての存在を思通りに利用しようとすると、いつでも利用される存在に変わるということです。
仏様の智恵を無分別智といいます。人間の知恵、すなわち分別智に立つ限り決して安らぐことはありませんよと私に呼びかけて下さる智慧が無分別智であります。
あさはかな分別智を照らし破って下さる用きこそ無分別智の仏さまというのです。
(「テレフォン法話」H8.6月 名畑龍童輪番)
七草粥

地震
心配


北野たけし
もっと胸張って自分らしく頑張ろう!そして、気をつけないように気をつけよう!!
南無阿弥陀仏

願入寺 地紋
自分で作成しました
軸付藤の丸の三割藤
南無阿弥陀仏



年賀状
恩師より

願入寺、寺紋

夕日
あまり、阿弥陀さんって夕日に照らされる事ってないと思うけど自然の光っていいな
引っ越したら照らされる事なくなっちゃうから寂しくいな
南無阿弥陀仏

修正会
「あけましておめでとう」お正月になれば、どこの家庭でも交わされるあいさつです。しかし、いったい何がおめでたいのでしょうか。ごちそうを食べたり、お年玉をもらったりできるからでしょうか。 一つ歳をとって大きくなったからでしょうか。そのめでたさの中身をちょっと考えてみるのが元旦のおつとめ(修正会)です。
去年はあまり良いことがなかったけど、今年はきっと良いことがあるだろうと、新しい年に望みをもつのは当然のことと言えましょう。しかし、何でも望みどおりになった年など、今までにあったでしょうか。 結局、去年のいやなことを忘れ、お正月に新しい夢を見る、そんなことを毎年くり返しているのではないでしょうか。
いのちが無限に続くならば、それでもいいかもしれません。しかし誰もが必ず死を迎えます。しかも、自分がいつ死ぬかは誰にもわかりません。いのちには限りがあるということを知り、夢から覚めることが大事です。 そうでないといくつになっても「今年こそは」といいながら、もう二度と戻ってこない「今」という大切な時を無駄に過ごしてしまうことになります。
親鸞さまは、人間が生きていくうえでなくてはならないことを「真宗」という言葉で示してくださいました。真宗に出遭えば、誰もがどんな状況の中でも、いきいきと生きることができると教えておられるのです。
自分の好きなことだけを求める生き方は、逆にいえば、いやなことが起こるのではないかといつもびくびくしている生き方です。ところが現実は、自分の望みに反していやな問題がたくさん起こってきます。 そのような中で、いやな問題であっても受け止めていけるのは、自分の好き嫌いよりももっと大切なことがあると気づいた人です。
私たちにとって何が本当に大切なことであるかそれを改めて考えるのが元旦のおつとめ(修正会)です。
(大谷大学 一楽真 学長)
恩師からの金言
「筋は通したのだから遠慮せず始めなさい。
ご門徒はお寺の所有物ではないし、教化活動に縄張りもない。
如来の事業を担うのですから、ちっぽけな人間のエゴはほっといて公明正大に胸張ってやっていきなさい。」
去年も波乱万丈だったが、今年も波乱万丈な予感がします。
これまで波乱万丈な人生ではなかったことはあっただろうか。
何処へ行き、何をしいても聞法と言う姿勢がなければ、「波乱万丈な人生だった」で終わるだろう。
共にと言うことがなければ、私1人では聞法はできない。御門徒さんと共に歩んでいく、地域の方々と歩んでいく、宗門の一員として歩んでいくと言うことももちろん大切であるが、聖典と新聞の間で聞法すると言うことを、今年は心がけたい。
頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って努力して、誰にも認められなくても、たった1人だけでいい。
南無阿弥陀仏
