明日は初の子ども食堂

さて、明日は初の子ども食堂。

来てくれるかな。

【メニュー】
カレー、唐揚げ、サラダ、果物+駄菓子もいいよ

大人食堂になりそうです😅

近所のカレー屋さんにチャイをくだちゃいって言おうかな😊

※写真はイメージです

南無阿弥陀仏

報恩講の準備

お磨きどうしようかな。うちは仏具が少なくて楽だけど。

さすがに恩賜型銀香炉は磨いたらダメですよね😅

南無阿弥陀仏

17時の鐘は平和の鐘

毎日恒例の17時の鐘🔔

回数は気まぐれ、坊守の時は5回と決まってるそうです。

叩き終わり振り返ると、1人のご婦人が。

何処から聞こえてくるのか探して来たみたい。

有難う有難うとお礼を言われ、とっても嬉しかったです。

南無阿弥陀仏

名畑輪番

東別院テレホン法話です。

蓮如上人の五百回御遠忌を明年に迎えることになりました。蓮如上人といっておわかりいただけない方でも、葬儀のあとに還骨法要がつとまりますが、その時に拝読される “自骨のお文”を書かれた方ですというとおわかりいただけると思います。その御法要のテーマが「バラバラでいっしょ、一差異をみとめる世界の発見一」です。

辺見庸という作家が対談で次のような話をしております。「ぼくは今、非常に興味があるのは臭いなんです。臭いに無性の関心がある。というのも、地下鉄に乗っていたら、排泄物の臭いを消す薬という広告を見たんですね。これが高校生の間で流行っているという。ポケットベルとその薬。

これが常備だっていうんです。ぼくは自分の排泄物も臭わさないで、人生いったい何が面白いのかと思う。さっきいった黒板のチョークを黒板消しで消すようにして人を殺せるというのもそれです。相手の臭いとか痛みとか手触り、そういうものを全部排除する社会になっている。相手の手触りとか言葉とか息づかいとか肌の感触とか、最近の日本人はそういうのが嫌なんです。直接的に交わるのが嫌なんです。臭いにまみれたり、汗にまみれたりすることを非常に嫌がる。美しさ醜さ、この基準を今の日本のようにこれほど単純にステレオタイプ化した歴史というのも人類史の中にないと思う。」という発言です。誠にその通りだと思います。

現代の人間には顔がないという。個性がない、特性がない。みんな考えることも、行動することも、相貌さえも均一化してきているし、均一化しようとしている。他と同じであることに安らぎを求めるということは、同じでないものを差別し排除する世界を作り出すのである。そこには他者との本当の意味での関係は生まれない。お互いの悲しみや痛みを共有する本当の関係が生まれてこないのです。誰にとっても、ありのままの自分を受け入れてくれる「ふところ」が欲しいのです。差異は差異で光輝く。差異があるから学べる世界を発見する。この私一人の蓮如上人五百回御遠忌お待ち受け大会が六月一日に別院で開催されます。また、今月七日、三十一日と講座がございますので是非ご参加下さい。

(東別院テレフォン法話より)

ご本尊のある生活

あかおの道宗、もうされそうろう。「一日のたしなみには、あさつとめにかかさじと、たしなめ。一月のたしなみには、ちかきところ、御開山様の御座候うところへまいるべしと、たしなむべし。一年のたしなみには、御本寺へまいるべしと、たしなむべし」と云々

蓮如上人御一代記聞書の言葉です。

門徒の心得として、「毎日お内仏に手を合わせ 月に一度はお手次の寺に参り 年に一度はご本山に参ろう」

という、私たちの生活のたしなみです。

私たちの生活に手を合わせることはありますか?

ご飯食べる時くらいですか?

ご本尊に合わせる事はありますか?

合掌は、インドでは「ナマステ」「ワナッカム」と相手を敬う挨拶があります。

合掌という姿は、私は無防備です。無抵抗です。という平和の象徴の姿です。

合掌したまま喧嘩する人いるでしょうか。

少なくとも、仏様に手を合わせている時に喧嘩は出来ません。

武器を持つ事も出来ないし、相手を傷つける事も出来ないし、自分を傷つける事も出来ません。

「いつでも、どこでも、誰をも、もらさず救うはたらきをかたちどったお姿」

と同朋新聞に書いてあります。

それは、合掌しお念仏を申すことによって、人と比べて、勝ったか負けたか、損したか得したか、いいか悪いか、争いしかしていない私たちが、いつでも、どこでも、誰にでも、平和で豊かで争いのない世界を生きて欲しい、時間をすごして欲しいと願われている事に気づき、目覚めていく生活が、ご本尊のある生活なのです。

南無阿弥陀仏

焼き鳥

もはや、何屋さんだ〜😹

「赤ちょうちん 串1本に ぐち10本」

忘れられない言葉です

焼き鳥は難しいですけど、日々研究ですね

南無阿弥陀仏

合成です