10月28日

ニッパチの日が近づいて参りました。
1ヶ月早い😹
今月の子ども食堂はハロウィンメニュー🎃お菓子配りもあります😌✨
りんご🍎や柿のご寄付もいただきました♪
どうぞ、13時からの法話会もご参加ください。
平日は中々難しいかもしれませんが、一生懸命お話しさせていただきます。お気軽にお越しください。お待ちしております🙏😌(法話会の参詣が少ないので💦切実です😹)

青年のつどい

申し込みました♪
実はこんなに近いのにまだ一度しか登った事がありません。
いい機会なので坊守と登ってきます🙏😌

バークレー東本願寺

アメリカには現在、ハワイ開教区に5ケ寺、北米開教区に4ケ寺の大谷派の開教寺院があります。
副住職はバークレー東本願寺にて穏やかな日曜日の朝を迎えております🙏😌
僕も行ってみたいな🥹🙏

答えのない問い

ノーベル賞 医学生理学賞を受賞した、京都大学 特別教授 本庶佑さんは、
「研究というのは何か知りたいという好奇心なので、簡単には信じない。教科書に書いてあることは信じない。本当はどうなっているか?山のようにある情報の中で、自分の目で物を見て、自分で確かめる“疑う事の大切さ”」
を、仰っています。
疑う事の大切さとは、
本当の問いを持つことだと思います。
親鸞聖人も、
「念仏は、浄土という世界に往くための原因なのか、また地獄という世界に堕ちる行為なのか、私はまったくわかりません」とおっしゃっています。
え〜!うっそ〜!と思うくらいびっくりするような言葉ですが、
「そもそも宗教、ことに仏教とは、「生きるとは何か」「人間とは何か」という人間存在の問いを深めていくもので、これこそ人間の根源的問いであり、究極的課題です。つまり、答えを出して誤魔化すのではなく、問いこそを大切にし、苦悩する人間に寄り添ってきたのです。答えを与える宗教は、むしろ人間を縛っていくものにすぎないのです。また、人間を問うはずの宗教が、人間の欲望に利用される宗教に転落していってしまっている現状は、至るところで見受けられます。
 問いに生きた親鸞聖人の姿勢には、人間を見つめることを忘れて、他にふりまわされながら生きざるを得ない現代に生きる私たちにとって、かけがえのない尊い自分に帰っていく道すじが示されているように思います。
 それは、けっして他にふりまわされない人間になることではありません。むしろ他にふりまわされながら生きざるを得ないなかに、それを問い返す眼、執着しない生き方が与えられてくるのだと思います。」(本多雅人)

わかったつもりになり、答えが独り歩きして、問いを持たない自分の生活が言い当てられます。生きるって不思議だなあと問いを持つと明るくなり、答えを握りしめると暗くなるのです。それを仏教では無明といいます。

ビールサーバー

今月は坊主バーオープン1年が経ちます。あっという間早いですね。特別1周年記念とかの予定はありませんが、ニッパチの日にご予約をいただいているので、今までありませんでしたが、ビールサーバーを設置しようと思います♪
何のビールを入れようか試飲中で、いろいろありすぎて迷子中ですが、楽しみにしていてください😌✨

生きる

あなたは今、生きていますか。

「そんなこと、あたりまえじゃないか。」

そう思う人もいるでしょう。では、「あなたは今、活き活きと生きていますか」と聞かれたらどうこたえますか。

「いのち」は無条件で尊く、かけがえのないものです。そして、それは自分で自由に作れるものではありません。また、目に見えるものでもありません。

鳥のはばたき、駆け回る犬の姿、咲きほこる花々、そして街を行き交う人間の営み。そのすべてがいのちの姿であり、「生きている」ことです。

しかし、ここでもう一度考えてみましょう。呼吸をし、血液が流れ、心臓が動いているから「生きている」のでしょうか。食べたり、遊んだり、泣いたり笑ったりしているから「生きている」と言えるのでしょうか。「動いていること」と「生きていること」はどう違うのでしょうか。

釈尊は亡くなられる前に、長年そばで教えを聞いてきた弟子阿難の「残された者は、これから何をたよりに生きていけばよいのでしょうか」という問いに、

「自灯明法灯明」(じとうみょうほうとうみょう)と応えられました。

自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

『大般涅槃経』

それは、決して人に流されて生きることなく、自分をたよりにして、いわば自分であることに安心して、自分として生きなさいということです。それは、自分勝手な思いで自己を肯定し、「私は正しい」という思い(=わがまま)で生きていくのとは違います。釈尊の示された真実の教えによって照らされ、その道理によって明らかにされた自分(=あるがまま)に気づくことが大切なのです。

私たちの人生は、さまざまな困難や不自由と出会わなければならないものなのです。人は必ずしも自分の思い描いた通りの人生を生きることはできません。

しかし、その思い通りにならない現実から目をそむけることなく向き合い、わがままな自分自身に「これでいいのだろうか」と問いかけませんか。そこで、人は大切な教えと出会い、「ほんとうの人間」となっていくのではないでしょうか。その中からはじめて「活き活きと生きる」意欲がわき上がってくるのではないでしょうか。

あなたは今、活き活きと生きていますか。

『生まれる生きる生かされる」(東本願寺出版)より

繭人間

足繁く通って、これで何回目のパソコンの修理だろう…
てか、寿司屋のカウンターみたい。
5.6年に一回は壊れるように出来てるとしか思えない🤔
パソコンの使い方が悪いのかな。
やっとデータのお引越しがほぼほぼ終わり、心機一転新しいパソコンとの生活が始まろうとしております。

落ち込んでいる僕を励ましてくださった先生の言葉が、今1番響いております。

「日中も陽気は楽になりましたね。どうぞ落ち込みすぎませんよう。なにとぞ坊守様とご相談なさりながらお進みくださいませ。ニッパチの日を大切に第一にされるのは大変けっこうなことと存じます。が、一つに集中すると依存性も生まれますし、ひとつのミスにも大ダメージを受けてしまいます。行動も関心も分散するほうをお勧めします。また飲みに行かせてください。開店日が分かりましたらお示しを」

嬉しい😹
何もかもやる気が無くなって自暴自棄になってしまい(パズルではありません)、勉強会や研修会の参加を遠ざけて殻に閉じこもっている自分の背中を押してくれる言葉です。有難う御座いました🙏🥹
しかし、だからと言って繭人間から解放されたわけではありませんが…

「このことは、ただ生と死の問題に限らないで、我々において「こうしたい」という思いと、「そうならない」という現実との間にある、その矛盾をも全て生死の問題として成仏道に関わる問題とされてきている。その問題が解決しない限り、我々はほんとうに安心できないからである。

実はこの生死の問題の解決に関して、その一つとして「どうすれば」というHOW TO方式がある。それはまず、一、自分自身の実力を蓄え、自分の思いが叶うように現実を変えていこうとする。この場合は、やがてということであって、未来にそうなることを信じてやっていくことになる。しかし必ずそうなると言い切れないため、いつでも不安が残ってしまう。自力作善の人の問題もここにあった。

さらに、二、として、絶対的な権威なり権力なりを持つ生き神とか生き仏とかの絶対者を立てて、そのものとの関係において現実が自分の思いに叶うようにになることを期待している。この場合は、その絶対者の力を信ずることだけが自分を安心させることになる。もし不審があれば、たちまち不安になってしまう。そのため狂信的になりがちである。親鸞聖人は、そういう生き神とか、生き仏とか、我々の運命を左右する力を持つと信じられている絶対者を「鬼神」とされ、鬼神の言葉を信ずれば、信じた者がその鬼神の奴隷にされてしまうと批判されている。

さらに聖人は、鬼神について、冥衆(みょうしゅう=目に見えない形)としての鬼神と、顕衆(けんしゅう=目に見える形)としての鬼神を見出し、厳しく批判されている。冥衆としての鬼神は、冥界・魔界を支配する天神地祇(てんじんぢぎ)とか、五道の冥官とかである。顕衆としての鬼神とは、絶対的な政治力、経済力を持つ支配者とか権力者のことである。聖人は「余のひと」(守護・地頭・名主)として示されている。しかしこれらの鬼神の問題は、聖人においては、そういう外なる鬼神とその鬼神を生み出す我々の内なる鬼神をも徹底して批判されている。

三、として、自分の思うようにならない現実の中で、すべてを諦めて絶望的に生きてしまう。この場合は生きながら死人になってしまうことであるから、どのような矛盾も自分で消していくことになる。さらに最後に、四、自殺することである。この場合は自分の思うようにならない現実を、自殺することによって拒否し、自分の思いを通そうとする。

これらの「どうすれば」というHOW TO方式による解決方法は、我々の思い、自我意識を大前提にして現実を変え、その矛盾をなくそうとすることである。しかしそれは、現実を受け入れていないため、どうしてみても現実に心を閉ざしたまま、思いの中だけの幻想になってしまう。このことは仏によって「蠶蚕自縛(さんけんじばく)」として示されている。蚕(かいこ)は口から糸を吐いて自分自身のまわりに繭(まゆ)を作り上げ、その繭の中で自分を閉じ込めながらサナギに変身していく。そのことに喩えているのである。我々の生死の中での生活は、そのようになっていると教え、それが三界六道の世界として示されている。

この世界からどう出離して、今・ここの現実に立ち返り、この現実を生きることになるのか。その我々の問題に対して、仏は出離生死の道として、どうすればというHOW TO方式とは異なる、なぜそうなるのか、その因を問うWHY方式を示して、その生死の問題、矛盾の問題の解決を示されている。それがいつでも大前提となっている。その自我意識こそ問題ありとして問い、その自我意識を離れさせ、生死を平等に受け入れることのできる如来の智慧を、我々に「信心」として与えることによって助けようとされている。」

《平成6年(1994年)5月30日》竹中智秀院長講義より