18888になりました
南無阿弥陀仏
住職の独り言ささやきです。親鸞聖人は小さなつぶやきやささやきに耳を傾けて人々の言葉を聞き逃さなかった方だと思います。
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南無阿弥陀仏
みーちゃんおはよう
元気かな?
元気じゃないか、死んじゃったからね
松を移動させたよ
壁を破壊されるかもしれないからね
通りすがりの小中学生に元気よく挨拶したよ
今の子は顔が元気ないね
明るく学校行って欲しいなと思い、挨拶毎日習慣
にしたいと思います
南無阿弥陀仏
昨日、初めてフラッと飲みに行ったミュージック・バー。
カウンターで気さくなマスターとお話しをしていたら、突然うちで働かない?と気さくな僕に気さくに声をかけられた。
びっくりしました。
よそで働いている場合ではない。一向に進まない坊主バー計画を早く形にしなければなるまい。
南無阿弥陀仏
仏教には因果論という教えがあります。辞書には
「果応報とあり、そかの善悪に応じて、その報い
があることと書かれています。
わかりやすく言うと良い行いをすれば良い事があり、悪い行いをすれば悪い事があるという考えです。
それは善因善果、悪因悪果とも呼ばれ、仏教の因
果論ではなく、偽経の誤った因果論の解釈です。
例えばひとたび自然災害が起これば、良いことをしようと心がけてる人。何にも思っていない人。言仰をもっている人、いない人。祈願していた人、していない人。平等に被災します。
被災はとてもつらく悲しく厳しいことですが、何が起こってくるかわからないという状況は人間の思いや努力では変えられません。
そして、その何が起こってくるかわからない世界と同じで、状況次第で私の心も何が飛び出してくるかわかりません。
仏教は「因はこれ善悪、果はこれ無記」と教えられます。起こってきた結果は、苦楽であって、善でもないし悪でもない。
私たち一人一人がその起こってきたことをどう受け止めるかを問題にします。
消してしまいたい過去の過ちも、そのことが自分を大切なことに目覚めさせる出来事に変えていくかどうかは、私たちがそのことをどう受け取るかで決まるのです。
その因果論を善因楽果、悪因苦果といいます。
それは、「これまでが」「これからを決める」のではなく、『これからが」「これまで」を決めると言うことです。
今まで、生きてきた人生の全ての出来事は無駄では無かった。つらい事も悲しい事も、嬉しい事も楽しい事も苦しかった事も、良い事も悪い事も全て無駄では無かった。
生まれて来て良かった。
今まで生きて来て良かった。自分は自分で良かったと、決めるのはこれからです。これからがこれまでを決めるのです。
良いとか悪いとか理屈抜きに、いのちの事実に目覚めていくのです。
いのちの事実は、思いが破れた成れの果ての姿です。その事実から目をそらさず、自分を認める勇気をいただいて行く人生だからこそ、
人と人とが、温もり合える関係にもなるし、世界で起こっている争いは無くなるのではないでしょうか。世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ
南無阿弥陀仏
たまたまメダカに餌をあげていたら、通りすがりの1人のご婦人が話しかけて下さった。
法話会に興味があるとの事で、通信や日程表を渡した。
28日に来てくれるかわかりませんが、誰もが気軽
に話しかけて、気軽に足を運んでくれるお寺になればいいなと思います。
南無阿弥陀仏
今日から坊守が参加させていただく「東京教区声
明教室」が始まった。
毎月2回の2年間の東京准堂衆会の声明教室。
5期生は5名しかいないみたいですが、みんなと仲
良く声を明るく頑張ってほしいです😊
僕では役不足なばかりに苦労をかけます🙇
南無阿弥陀仏
今年は11月でおじさん(先代住職)の七回
忌。早いなぁ。
いろいろな思いはあるけれど、書類を整
理していたら古い手紙が沢山出てきた。
おじさんの手紙、母さんからの手紙、先生からの手紙…
まだまだひよっこ。お世話になりっぱ
なしです。
南無阿弥陀仏
私が京都で学んでいたときに、ある人が死の恐怖ということを問題にされました。
死ぬということが恐ろしいと、どうにもならないからこそ不安でおびえると、そういった人生の素朴かつ根本的な問題を訴えられました。
それに対して狐野秀存先生が、親鸞聖人の最後のお手紙を紹介されました。日付から見ておそらく亡くなる二週間前の手紙だと推測されるのです。そこには「あとは頼む」ということが書かれているのです。
亡くなることはお手上げということです。自分の目の黒いうちは何かとやることはできますが、死に際してはもう無力としかいえません。もはや力及ばずです。親鸞聖人も同じで、そういう悩みがあったようです。それで親鸞聖人はどうされたのか。「あとを頼みます」「皆さんどうかよろしくお願いします」そのようにはっきりと託されたのです。
そういうお手紙を狐野先生は指して、あとを頼める人がいる、あとはよろしくとお願いできる人が私にはいる、これが死の恐れ不安を超える道ですよと教えられたのでした。
「あとを頼む」と言えることは信頼できる人がいる、任せられる人が側にいるということで
す。それが死の孤独や恐怖を超えさせてくれるわけです。もしそういうことが言えないとどうなるかといえば亡霊になるわけです。死んでも死にきれない存在にならざるをえない。
ですから人生に幸福や安心を与えられるかどうかは「あとを頼む」の声に応える私たちにかかっているともいえるのです。(上宮寺だよりより)
南無阿弥陀仏
ここまで立派になるのは20年くらいかかるのかな🤔
それ以上??
もうちょい左に植えた方が良かったかも😹
壁と接近しすぎかも
南無阿弥陀仏