無事引っ越し終わりました

25年間本当に長い道のりでした。

お陰様で無事引っ越しが終わりました。

御門徒の皆様に1人でも来ていただけるような、お寺に努めて参ります。

その為には、まず自分が行きたいと思うようなお寺づくりをしなければと思います。

見ていてください。

どうぞ宜しくお願い致します。

南無阿弥陀仏

いよいよ

5年間本当にお世話になりました。有難う御座いました。

本当にいろいろな事がありました。

いい事も、悪い事も、辛い事も、悲しい事も、嬉しい事も、楽しい事も、全部無駄ではなかった。有り難いご縁だったと言えるかどうかはこれからが、これまでを決めます。

南無阿弥陀仏

本来の自分

真宗は聞くことに尽きると言われます。では何を聞くのでしょうか。それは自分を聞くのです。日常、私たちは自分のことは自分が一番よく知っていると言いますが、一番知らないのは自分ではないでしようか。その証拠にあなたはどうして生まれたの、どうして生きねばならないの、本当はどうなりたいのという問いを出されると、答えようがないのです。自分でありながら、自分を知らないで生きていることを迷いと言います。つまり本来の自己を見失って生きていることです。本来の自己の代わりに、思いで固めたものにすぎない自分というものを立てて、その思いで固めた自分を何とかしようと右往左往している。そういう生き方、在り方が、自分を知らない迷いなのだということを、自分の姿を通して知らされるのです。仏法が聞こえる身になるということは、特別な人間になるのではなくて、自分というものを見ていく目を頂くことです。思いで固めているだけに過ぎない自分の立場を見破って、本来の自己を回復していくことが、間法ということであり、自分の迷っている事実に気付かしめる一切のはたらきを仏法というのです。一切は仏法に出遇うためであり、仏法に出遇うとは、自分の迷いの深さの目覚めを通して、人生の無限の豊かさに目覚めていくことであります。

安田理深先生の『信仰についての問と答』のご本の中で「如来というのは、本来の自己です。自分が本来の自己を見失って我執を自己だとしていた。だから本来の自己にかえらせてもらう」と。また「我執が妄想を造って、造った妄想で我執が苦しんでいる。長い間見えなかった我執が見えた。そこに初めて宿業の現実がある」と教えて下さっております。ですからお念仏というのは、宿業の身にかえるということで、初めて忘れていた本願を思いおこす、自分の底に流れていた本願を思いおこすことなのでしょう。

お念仏

念仏申さなければ助からない。聴聞しなければ助からない。どこまでいっても助からないとはっきりする事が助かるということ。悩み苦しみがなくなれば何を頼りに生きて行っていいかわからない。悩み苦しみが生きる力になる。それがわたしの探し求めていた人生。
南無阿弥陀仏

自分にあう

今月は別院年間最大の仏事「報恩講」が10月27日から30日まで勤まります。別のご門徒である以上は必ずこのご法要に参加して下さい。参加しないならば別院のご門徒とは言えないのです。

どうして私達が、ご法要、報恩講に参加しなければならないのでしょうか。それは仏様が、親鸞聖人が、ご先祖がこの私を呼んで下さっているからです。呼びかけなど聞きたくない、必要ない、そんな呼びかけなど有るはずがないと言う人は人とは言えないのです。

呼びかけを聞こうとしない人を人の姿をした鬼であり、餓鬼、畜生と言うのです。三悪道という在り方しかしていない動物、まさしく動いている物にしかすぎないのです。困ったことにこの動いている物、三悪道に埋没しているにもかかわらず、この事に何の疑いもなく生きています。

しかし、この動物はどうやってみても、どうなってみても落ちつきません。これで良かった、これで大安心、これで大満足という状況には決して到達しないのです。せいぜいこれくらいのところで満足しなければならないと、しぶしぶ自分に言い聞かせ、気休めしているくらいが精一杯でしょう。

そんな在り方をしている私達に、それで本当に落ちつけるかと、どこからともなく呼びかけられます。どこからともなく不安が出て来ます。なんとなく淋しさを感じます。どうなっても虚しさをいだきます。このようなせっかくの呼び掛けを私達は無視して、ごまかし続けて生息しているだけなのです。ごまかしには決して解決という事がありません。来るべき時は来ます、多少の長短は有ってもご臨終です。こんなはずではなかったという後悔のみが残ります。

三悪道とは自分の思いを遂げる為に、全ての存在を利用し、自分の思いにかなわないすべての存在を排斥する生き方を言うのです。そのような生き方を拠り所にしている私達に、頼りにならないものを頼りにしているのではないかと、眼を覚ましなさいと、仏様が、親鸞聖人が、ご先祖が呼びかけて下さるのです。本当の「いのち」に出遇いなさいと、呼びかけて下さる声を聞かせて頂く尊いご法要、御仏事が「報恩講」なのです。是非とも本当の自分自身に出あわせて頂きましょう。 「東別院テレホン法話より」

住職とは

住職は住む仕事と書きます。つまりお寺に住み続けることが仕事ということです。住み続けると言っても、お寺は住職の所有物ではありません。御門徒さんの共有財産をお預かりしている留守番役です。留守番と言ってもただ何もせずいるだけではなく、親鸞聖人が処方して下さった弥陀の妙薬をいただく入院患者です。御門徒さんは通院患者です。住職は入院患者ですから御門徒さんよりも重症なのです。

そして聞法の道場として、内陣の荘厳をし境内を掃除する草むしりが仕事です。月忌参りや葬儀、法事が仕事ではありません。

しかし、草むしりだけでは食べていけないので、托鉢して回り施しを受ける事が必要なので、お勤めの研鑽が必要です。

その托鉢は仏縁を結んでいただく大切な仏事なので疎かには出来ません。一発勝負の真剣なお勤めです。

私も行きたいお寺と行きたくないお寺があるように、御門徒さんもあると思いますが、行きたいお寺、行けなくてもお寺に住職がいるだけで安心と言われるくらいではなけれはならないと思います。

南無阿弥陀仏