「死にたい」は、実は「生きたい」

SNSに「死にたい」は、実は「生きたい」

 無縁社会とさけばれて久しい今日この頃ですが、隣に住んでいる人の顔も知らない世の中を無縁社会と呼んでいるのでしょう。

こんな人がいました。ある田舎のおじさんです。仕事の会合で田舎から都会にでてきた時のこと。一人の女性から声をかけられうれしそうについて行きました。するとその女性はア〇ランスの営業の人だったのです。おじさんは髪の毛が薄かったので今ならお安くしておきますよと言う甘い言葉につられたのでした。仕事から帰ってきて奥さんに報告しました。「あんた馬鹿じゃないの」と奥さんに怒られました。田舎に住んでるので地元はみんなおじさんの髪の毛が薄い事は知っています。今さら髪がふさふさしてたら逆に変です。 しかしおじさんは都会なら誰も自分のことは知らない。田舎ではごまかせなくても都会ではごまかせるからいいと思いました。しかしよく考えてみるといくら人をごまかせても自分はごまかせないと言う事に気がついたのです。都会では誰も自分の事を知らないから堂々とかつらをかぶれるというところに、自分の生き様がいいあてられます。「過去と現在と未来の人びとを救いたい」という法蔵菩薩の願いは、生きとし生ける全ての人々を救いたいという願いなのです。

南無阿弥陀仏

『人生は演劇である』

シェイクスピアは『人生は演劇である』と言われました。それは、私たちは、ひとりひとり人生という舞台の主人公ということです。周りの人はみな脇役。その舞台は、悪人もいれば、正義の味方もいます。全員正義の味方だととってもつまらない舞台になりますし、悪人がいるからこそ面白い舞台が生まれるのです。お金持ちもいれば貧乏な人。女に生まれた人もいれば男に生まれた人。みんなそれぞれ与えられた役割なのです。その舞台の主人公として一生涯演じ切っていくというわけです。そう考えるとあまり深刻に悩まなくてもいいのかもしれません。と言いましても、私たちは人間関係を生きている以上悩みは付きものです。阿弥陀経というお経の最後に「歡喜信受 作禮而去」とあります。お釈迦様の説法を聞いたお弟子さんたちは喜び感動して、最後に頭を下げてその場から立ち去りましたと書いてあります。では、どこへ帰ったのでしょうか?自分の思い通りになる場所へ帰ったわけではありません。人間関係を生きている現場へ帰ったのです。お釈迦様の説法を聞いたからと言って、自分の思い通りの世界になるということではありません。お釈迦様の説法を聞くということは、人間関係が切り刻まれどろどろとした場所へ、勇気を持って帰って行くことができるようになるということをお経では説かれているのです。その場を逃げ出すことなく、辛いけれども、苦しいけれども、現実を引き受けていける勇気を与えてもらうということです。それが、「歡喜信受 作禮而去」という言葉で教えられることです。そのことが私たちひとりひとりの救いであり、信心をいただくということなのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏

御斎

最近はご法事のあとの御斎に呼ばれる事が少なくなりましたが、久々の御斎にお呼ばれし、いろいろお話しをさせていただき、やはり御門徒様との語り合いの場は、改めて御斎は大切だなと思いました。

南無阿弥陀仏 

みんな違ってみんないい

「あたなたと考え方が違う」

みんなそれぞれの教えを信じて、それぞれの人生を生きているけれども、どこで、みんな違ってみんないい世界という事ができるのか。

キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、創価学会だろうが、共に救われていく道が真宗ではないでしょうか。みんな一緒になって救われて行きましょうという教えではありません。バラバラでいっしょです。

そのバラバラな私たちが、浄土を真実として歩んで欲しいと仏さまから願われているのではないかなと思います。

南無阿弥陀仏

阿弥陀様

ゔぅ…

もう駄目だ…

阿弥陀様助けてください…

お願いします…

……

………

…………

何もしてくれない…

阿弥陀様は何もしてくれない…

ただ光輝いて立っているだけ…

手を差し伸べて助けてくれるわけでもないし…

なんにもしてくれない…

何かしてくれるから阿弥陀様はそこにいるわけではないのかな…

あなたは、お金があっても無くても、健康でも病気でも、勉強が出来ても出来なくても、若くても若くなくても、友達がいてもいなくても、

あなたは、何にも出来なくでもそのままで光輝いてるのですよと、言わんばかりに黙って立っておられる。

そう言われても中々そう思えない。

誰かに褒められた時や、思い通りになった時は思わない事はないけれど。

あまりそんな時はないけれど、あってもその時だけ。
長続きしません。

私は毎日光輝いてどうしようもありませんと、いえたら、お勤めなんてしなくていいのかな。

いえないから毎日お勤めさせられてるのかな。

私の心が良くてお勤めしているわけではないのかな。心が悪いからお勤めさせられてるんだな。

立派だから、坊さんしているわけではない。立派じゃないから坊さんさせられているのかな。

立派だったら坊さんする必要ないかな。

あなたはお勤めしなければどうしようもありませんと、阿弥陀様はただ黙って立っておられる。

南無阿弥陀仏

元嘉風・中村親方

「ただ、弱音を吐くのって強さの証しだと自分は思っているんですね。強がって何も言わないと助けてあげられないけれど、自らの弱さをさらけ出してくれれば、我々周囲は手を差し伸べたいと思うし、ちゃんとコミュニケーションが取れます。自分の心の内を素直に見せてくれることによって、つま先が引っかかって転んだのがつらかったこと、ひいては常に不安感と戦っていることがわかりました。だから自分は、『傷つく準備をしておけ』とアドバイスすることができました。『負ける準備やできない準備をしておけば、できなかったときの心の傷は最小限に抑えられるし、できないことはどうしたらできるようになるか、俺が一緒に考えて改良していくから、とにかく恥をかいて、弱さをさらけ出して、土俵の上でみっともない思いをしろ』と。自分に足りないものを認識することは、強くなるために必要ですから、プラスでしかないんです」 元嘉風・中村親方

新しい阿弥陀様

新しい阿弥陀様が届きました。

妻が一言
「どうして頭青いの?」

えっ?…

※青頭とは…
「仏の三十二相」の中の十二番目の「毛孔生青色相」で一本一本の
毛孔から青色の毛が生えていると定められています。
何故、青色の毛と定められているのかというと暑いインドでは青は清涼の色で黒髪を表すのに青で表現しています。
青色は仏教においては如来の毛髪の色で心乱れず穏やかな状態で力強く生き抜く定根・禅定を表す。

だそうです🙏

南無阿弥陀仏