救いとは

3月1日は何の日かご存知でしょうか。今日一番大事なことを言いますのでメモのご用意はよろしいでしょうか。今日はここだけしっかりメモして帰っていただければと思います。3月1日は私の誕生日です。ね、一番大切な日でしょ。みなさん自分の誕生日知ってますか?逆にわからないという人いますか。

落語に「代書屋」という落語があります。ある一人の客が履歴書というものがどういうものか分からずに代書屋へ行って、履歴書を書き上げるひと騒動を、面白おかしく演じている落語です。その代書屋とのやりとりが面白いのですが、

生年月日言ぅてもらえますか●うまいこと言えるかなぁ……、セェ~ネンガッピ!■いやいや……、あなた何か間違ってますよ。あのねぇ「生年月日」と言ぅのと違いますねん。生年月日を、言ぅてもらいますねん●セェ~ネンガッピ、ヲッ!■あのねぇ、どない言ぅたら分かりますかなぁ。あなたの生まれた時のことを言ぅてもらうんです●わたしの生まれた時のこと言ぅんですか? ウワァ何も覚えてないなぁ……■たいてぇ、何も覚えてませんねんけどねぇ、いつ幾日(いっか)生まれたてなこと、あんた誰かに聞ぃてませんか?

というようなやりとりをする落語です。落語にありますように、生まれた日の事を覚えている人はいないと思います。誕生日というのは、教えてもらわなければ分かりません。生まれた日も場所も親も分からないですし、男か女かも選べません。何一つ自分では決めることができないのが誕生です。つまり、全部いただきもの、両重の因縁と言われますが、いただいたいのち、縁をいただいたということですが、そのいのちは一時的に預かったいのちということであり自分の所有物ではありません。そして、そのいのちは預かりものですからいずれお返しする日がくるということです。そのいのちは、十代さかのぼれば二千人以上の遺伝子の一部を受け継いでいると聞きますが、自分の遺伝子、自分のいのちと言えるものは無いにもかかわらず、俺のいのちというつもりで生きています。因縁和合して生まれ、因縁和合して死んでいくにもかかわらず、いのち事実に帰らず、自分の解釈、都合に帰り、我執をいのちとして生きています。縁起の道理に目を覚ます教え、お念仏の教えを、落語を通して教えてもらいました。

 さて、そんな私は札幌出身札幌育ちの44歳になります。両親には高校卒業まで育てていただき、地元で就職してから紆余曲折を経て迷いに迷いを重ね生死いずべき道を求めていよいよ八王子にたどり着いたのです。そんなお寺出身ではない普通のサラリーマンの家庭で育った私は良く聞かれる質問があります。「どうしてお坊さんになったの?」という質問です。私は決まって、「ろくでもない人間だから坊さんになったのです」と答えます。何故なら立派だから坊さんになったわけではないからです。そして、立派になるために坊さんになったわけでもありません。正直私は世間から逃げ出して坊さんになりました。世間から逃げ出して坊さんになったにも関わらず、その坊さんからも逃げ出したいなと思うことがあります。つまり、どこに逃げても逃げ場所はない、今を引き受けて生きる以外に道なしという事に気づかされ、かろうじて続けて来られたように思います。続けて来たならどこまでも自力です。続けて来られたなら他力のおはたらきなのだと思います。無数のご縁をいただいて勤めてこられた不思議さを今さらながら感じています。

ある先生が「念仏申したから救われるのではありません」と言われました。念仏申さなければ救われない我が身であるということです。坊さんになったから救われるわけではありません。坊さんにならなければ救われない私ということです。お寺にお参りしたから救われるわけでもありません。お寺に参らなければ救われない私ということです。つまりどこまでも救われない、助からないという自覚が一大事だぞと先生は教えてくださいました。そして、念仏申したくらいで救われてしまっては元も子もないぞと先生はおっしゃってくださったのだと思います。

真宗は何はなくとも聞法に尽きると言われますが、聞法とはお念仏のみ教えをわが身に引き当て聞くということです。それはお念仏のみ教えの通りに生きて行くということではありません。聞法とは自分の解釈で教えをつかまえて教えの通りに救われた自分に安心することではありません。仏のおはたらきは、どこまでも私をつかんで離さず救いとは何かと常に私に問いかけ続けてくださるおはたらきです。そして、どこまでも安心を許さず胡坐をかかせないような厳しさを持った教えです。先ほど、聞法とは教えの通りに生きて行くということではないと言いました。何故なら私は教えに背き続けて生きざるおえない罪悪深重煩悩具足の凡夫であり業縁存在の身だからです。その証拠に今までまがりなりにも聞法してきたにも関わらずこれでもうすべて救われて絶対安心と言える自分はどこにも存在しません。そして、今まで聞いてきた言葉の数々は右の耳から入って左の耳から抜けていってしまい、たとえ必死に覚えようとメモして自分の知識にしたつもりでも他を批判する道具に使うくらいが関の山です。教えとは教えの通りに生きて行ける私の為にあるわけではありません。教えに背き続けている私の為にあるのです。例えば「欲を離れよ」という教えがありますが、はたして実現可能でしょうか。多少我慢するくらいが関の山です。欲がなければ生きてゆく事が出来ないにも関わらず何故欲を離れよという教えがあるのでしょう。つまり、欲を離れる事を目的としているのではないのです。差別を無くし仲良くしましょうという教えもそうです。そんな素晴らしい立派な教えがあるにも関わらずなぜ世の中に戦争が無くならないのでしょうか。たとえ世の中にどんなに立派な優れた教えがあっても教えの通りに生きてゆけるのであれば教えは必要ありません。教えに背き続ける私がいるがゆえにそれでいいのかと常に私に問いかけ呼びかけ続けてくださる。それが教えの持つ大切な意味です。人事ではなく私自身の聞法の姿勢が問われています。迷いに迷いを重ね、どこまでも救われ難い助からない罪悪深重煩悩具足の凡夫の身ではありますが、だからこそと生死いずべき道を求め今を精一杯に生き、教えに背き続けている自分を知らされ続ける以外に救いの道はないのだと思います。

南無阿弥陀仏

左利き

今日小学6年生の男の子から質問を受けた。

「僕左利きなんだけど、念珠はどっちに持って、焼香はどっちですればいいんですか?」

一瞬、え❓え❓

葬儀終わった後に❓
始まる前に聞いて欲しかったなあなんて。
てか、今まで考えた事もない質問に面食らってしまい、
「僕ね今までお寺さんしてきて初めて聞いた質問だよ。なるほど確かにそうですね。戸惑うよね。今まで考えもしなかった事です。ありがとう質問してくれて、今度まで調べておくね」と。
なるほど確かに言われてみればそうだな。
鋭い質問だなこの子。
すぐさま答えられなかった恥ずかしさより、男の子の質問に関心させられました。

昔は、左利きを右になおされたと聞いた事があるけど、今は個性なのでなおさないらしいですね。

先輩に聞いて冷静に考えてみると、所作法で右利き用左利き用なんてありません。右利きでも左利きでも作法は一緒なんですと。

ドラムは左用のセットがある。ギターもベースもある。

右投げ左打ちの人もいる。

右利き左利きって何だろう。

生きるって何だろう。

南無阿弥陀仏

みーちゃん20歳♂

『人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない』
金子大栄

みーちゃんはどうなのかな

南無阿弥陀仏

新しい袈裟

畳袈裟を新調しました。

身だしなみを整えると言うことはお敬いの心です。

南無阿弥陀仏

罪福信

親鸞聖人は私たちの迷いの在り方を罪福信といわれました。それは、自分にとって現在都合が悪いもの、将来都合が悪くなりそうなものを排除し取りのぞこうとする信です。自分に都合の良いものは人であれ、物であれ、思いを叶える爲ならばすべて利用しようとする信です。自分に都合の悪いものを取りのぞく「自」、取りのぞかれる「他」を分ける在り方です。取りのぞくものと取りのぞかれるもの、力のある者と力のない者、他を排除し抑圧してゆく世界を作りだす信を罪だといわれるのです。この罪福信をよりどころとして生きる限り死ぬまで安らぎはありません。何故なら思い通りにならないものを排除するということは、いつでもこの私が排除される存在になるということです。また、すべての存在を思い通りに利用しようとすると、いつでも利用される存在に変わるということです。仏教では、私たちの知恵は分別智、分別する知恵といいます。それは自分を立てるために、自分と他人、自分と他なるもの分ける、区別する知恵によって行動しているのです。この分別智をよりどころとして生きる限り死ぬまで惑うのです。仏さまの知恵を無分別智といいます。人間の知恵、すなわち分別智に立つ限り決して安らぐことはありませんよと私に呼びかけて下さる知恵が無分別智であります。あさはかな分別智を照らし破って下さる用きこそ無分別智の仏さまというのです。この最初の二句は仏さまのおはたらきに南無し帰命しますという親鸞聖人の表白なのです。

南無阿弥陀仏

宗教とは

宗教の「宗」は「むね」と読みます。

辞書には、

読み方:むね

中心となるもの。また、重要なもの。「安全を—とする」

(旨)述べたことの中心趣旨趣意。「辞退する—を伝え

とあります。総じて「拠り所」という意味があるといえます。つまり「宗教」とは、自分は何を拠り所にし、何を大切にし、何を中心にして生きているか?を問題にし、課題にしているのが宗教ということになります。

では、私たちは何を大切にして生きているかというと、大きく3つに別けることが出来ます。

1、お金

2、健康

3、家族

もっと他にも沢山あると思いますが、だいたいこの3つを拠り所として大切に生きているのではないでしょうか。

経済、経済、経済と連呼された方がおりますが、お金を中心に生きている時は、「金宗」という宗教に入っているといえます。お金より「健康が1番」という時は「健康宗」という宗教に入っており、家族が1番大切という教えを信じている人は「家族宗」という宗教に入ってるということです。

私たちは「浄土真宗」ですから、金宗でも健康宗でも家族宗でもありません。真宗です。では、真宗とは何かと言ったら、真実を拠り所として生きて行きますという教えです。真実とは何かと言ったら、浄土真宗ですから、「浄土」が真実ということになります。私たちは浄土が真実と言われてもあまりぴんときません。そもそも浄土が何かよくわからないからです。その時々の自分の都合によって、金宗になったり健康宗になったり家族宗になってみたりします。もちろんそれらを否定しているわけでも駄目と言っているわけでもありません。どれもそれぞれ無くてはならない大切なものです。良いか悪いかではなく、理屈抜きで大切なものです。大切なものではありますが、その時々の自分の都度でコロコロ変わるものは真実ではないと言うことです。

真実とは、いつの時代のどこの誰でも、永遠普遍に変わらない「真理」を真実といいます。

では、浄土が真実といいますが、浄土とは何か?が問題になります。浄土とは一言で言うと、一言では言えませんが、あえて言わせていただきますと、「合掌する」と言うことです。手を合わせると言うことです。

私たちは何に手を合わせているでしょうか?

インドへ行きますと、「ナマステ」と手を合わせ挨拶をします。ナマステはサンスクリット語で「あなたを敬います」と言う意味です。

では、私たちは何を敬っているでしょうか?

その人それぞれの価値観や世間の常識や国のルールに縛られて、お金、健康、家族を大切に敬って生きております。真実を敬って生きているわけではありません。

合掌の姿は、私は無防備です、無抵抗ですという平和の象徴です。

合掌し合いながら喧嘩する人はいるでしょうか?いるかもしれませんが、少なくとも仏さまに合掌している仏事の時に喧嘩する人はいないと思います。

合掌している時は武器を持つ事も、相手を傷つける事も、自分を傷つける事も出来ません。

しかし、私たちは良いか悪いか、損したか徳したか、暑いか寒いか、うまいかまずいかで一喜一憂しながら、人と人とが比べ合い争いながら生きております。争いの無い時代はありません。争いが日常で、平和が非日常です。アフガニスタンの子供たちは平和と言う言葉が理解出来ないそうです。平和の状態がわからない。常に争いの中を生きているからです。

では、日本は平和でしょうか。武器を持って争っている時だけが、戦争ではありません。受験戦争と言う言葉の通り戦争しているのです。その争いに負けた人たちは負け組と言われ、いろいろな状況や理由があると思いますが、今、日本の何処かで30分に1人が自らいのちを経っている現実があります。

私たちは争うために生まれてきたわけではありません。

合掌を通して真実に出会う。

浄土という世界は、1人1人のいのちが光輝き、一切の差別がなく、みな平等で争いがない世界です。

私たちの娑婆世界は、1人1人のいのちが光輝かないで、差別だらけで平等ではなく争いしかない世界です。

宗教はこわいと世間では思われる方がおりますが、騙す方も騙される方も根本的には同じです。この壺一つで病気が治ると言われて喜ぶ人は健康宗で、この壺一つ売ったら献金して貰えると喜ぶ人は金宗なのです。真実を敬っているわけではありません。自分の都合を敬っているだけです。

自分さえ良ければよい、そのようなあり方をしている私ですが、一日に一回は仏さまに手を合わせ、一か月に一回はお寺に来て手を合わせ、一年に一回は京都の本山へ行って手を合わせることが真宗門徒の生活のたしなみです。一日中手を合わせて生活出来ませんから、最低一回はと言うことですが、何回でもいいのです。世界中の人が一斉に手を合わせる事が出来れば争いは起きませんが、それは不可能です。

しかし、あなたの救いが私の救いですという心も微かにはあります。ゼロではありません。

みんなそれぞれの教えを信じて、それぞれの人生を生きているけれども、どこで、みんな違ってみんないい世界という事ができるのか。

キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、創価学会だろうが、共に救われていく道が真宗ではないでしょうか。みんな一緒になって救われて行きましょうという教えではありません。バラバラでいっしょです。

そのバラバラな私たちが、浄土を真実として歩んで欲しいと仏さまから願われているのです。

南無阿弥陀仏

旭川家具

大きくて、重たくて、幅取ってどうすんのこれ?って言うけど、僕は好きです。大切に使います。