『人生は演劇である』

シェイクスピアは『人生は演劇である』と言われました。それは、私たちは、ひとりひとり人生という舞台の主人公ということです。周りの人はみな脇役。その舞台は、悪人もいれば、正義の味方もいます。全員正義の味方だととってもつまらない舞台になりますし、悪人がいるからこそ面白い舞台が生まれるのです。お金持ちもいれば貧乏な人。女に生まれた人もいれば男に生まれた人。みんなそれぞれ与えられた役割なのです。その舞台の主人公として一生涯演じ切っていくというわけです。そう考えるとあまり深刻に悩まなくてもいいのかもしれません。と言いましても、私たちは人間関係を生きている以上悩みは付きものです。阿弥陀経というお経の最後に「歡喜信受 作禮而去」とあります。お釈迦様の説法を聞いたお弟子さんたちは喜び感動して、最後に頭を下げてその場から立ち去りましたと書いてあります。では、どこへ帰ったのでしょうか?自分の思い通りになる場所へ帰ったわけではありません。人間関係を生きている現場へ帰ったのです。お釈迦様の説法を聞いたからと言って、自分の思い通りの世界になるということではありません。お釈迦様の説法を聞くということは、人間関係が切り刻まれどろどろとした場所へ、勇気を持って帰って行くことができるようになるということをお経では説かれているのです。その場を逃げ出すことなく、辛いけれども、苦しいけれども、現実を引き受けていける勇気を与えてもらうということです。それが、「歡喜信受 作禮而去」という言葉で教えられることです。そのことが私たちひとりひとりの救いであり、信心をいただくということなのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏

御斎

最近はご法事のあとの御斎に呼ばれる事が少なくなりましたが、久々の御斎にお呼ばれし、いろいろお話しをさせていただき、やはり御門徒様との語り合いの場は、改めて御斎は大切だなと思いました。

南無阿弥陀仏 

みんな違ってみんないい

「あたなたと考え方が違う」

みんなそれぞれの教えを信じて、それぞれの人生を生きているけれども、どこで、みんな違ってみんないい世界という事ができるのか。

キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、創価学会だろうが、共に救われていく道が真宗ではないでしょうか。みんな一緒になって救われて行きましょうという教えではありません。バラバラでいっしょです。

そのバラバラな私たちが、浄土を真実として歩んで欲しいと仏さまから願われているのではないかなと思います。

南無阿弥陀仏

阿弥陀様

ゔぅ…

もう駄目だ…

阿弥陀様助けてください…

お願いします…

……

………

…………

何もしてくれない…

阿弥陀様は何もしてくれない…

ただ光輝いて立っているだけ…

手を差し伸べて助けてくれるわけでもないし…

なんにもしてくれない…

何かしてくれるから阿弥陀様はそこにいるわけではないのかな…

あなたは、お金があっても無くても、健康でも病気でも、勉強が出来ても出来なくても、若くても若くなくても、友達がいてもいなくても、

あなたは、何にも出来なくでもそのままで光輝いてるのですよと、言わんばかりに黙って立っておられる。

そう言われても中々そう思えない。

誰かに褒められた時や、思い通りになった時は思わない事はないけれど。

あまりそんな時はないけれど、あってもその時だけ。
長続きしません。

私は毎日光輝いてどうしようもありませんと、いえたら、お勤めなんてしなくていいのかな。

いえないから毎日お勤めさせられてるのかな。

私の心が良くてお勤めしているわけではないのかな。心が悪いからお勤めさせられてるんだな。

立派だから、坊さんしているわけではない。立派じゃないから坊さんさせられているのかな。

立派だったら坊さんする必要ないかな。

あなたはお勤めしなければどうしようもありませんと、阿弥陀様はただ黙って立っておられる。

南無阿弥陀仏

元嘉風・中村親方

「ただ、弱音を吐くのって強さの証しだと自分は思っているんですね。強がって何も言わないと助けてあげられないけれど、自らの弱さをさらけ出してくれれば、我々周囲は手を差し伸べたいと思うし、ちゃんとコミュニケーションが取れます。自分の心の内を素直に見せてくれることによって、つま先が引っかかって転んだのがつらかったこと、ひいては常に不安感と戦っていることがわかりました。だから自分は、『傷つく準備をしておけ』とアドバイスすることができました。『負ける準備やできない準備をしておけば、できなかったときの心の傷は最小限に抑えられるし、できないことはどうしたらできるようになるか、俺が一緒に考えて改良していくから、とにかく恥をかいて、弱さをさらけ出して、土俵の上でみっともない思いをしろ』と。自分に足りないものを認識することは、強くなるために必要ですから、プラスでしかないんです」 元嘉風・中村親方

新しい阿弥陀様

新しい阿弥陀様が届きました。

妻が一言
「どうして頭青いの?」

えっ?…

※青頭とは…
「仏の三十二相」の中の十二番目の「毛孔生青色相」で一本一本の
毛孔から青色の毛が生えていると定められています。
何故、青色の毛と定められているのかというと暑いインドでは青は清涼の色で黒髪を表すのに青で表現しています。
青色は仏教においては如来の毛髪の色で心乱れず穏やかな状態で力強く生き抜く定根・禅定を表す。

だそうです🙏

南無阿弥陀仏

救いとは

3月1日は何の日かご存知でしょうか。今日一番大事なことを言いますのでメモのご用意はよろしいでしょうか。今日はここだけしっかりメモして帰っていただければと思います。3月1日は私の誕生日です。ね、一番大切な日でしょ。みなさん自分の誕生日知ってますか?逆にわからないという人いますか。

落語に「代書屋」という落語があります。ある一人の客が履歴書というものがどういうものか分からずに代書屋へ行って、履歴書を書き上げるひと騒動を、面白おかしく演じている落語です。その代書屋とのやりとりが面白いのですが、

生年月日言ぅてもらえますか●うまいこと言えるかなぁ……、セェ~ネンガッピ!■いやいや……、あなた何か間違ってますよ。あのねぇ「生年月日」と言ぅのと違いますねん。生年月日を、言ぅてもらいますねん●セェ~ネンガッピ、ヲッ!■あのねぇ、どない言ぅたら分かりますかなぁ。あなたの生まれた時のことを言ぅてもらうんです●わたしの生まれた時のこと言ぅんですか? ウワァ何も覚えてないなぁ……■たいてぇ、何も覚えてませんねんけどねぇ、いつ幾日(いっか)生まれたてなこと、あんた誰かに聞ぃてませんか?

というようなやりとりをする落語です。落語にありますように、生まれた日の事を覚えている人はいないと思います。誕生日というのは、教えてもらわなければ分かりません。生まれた日も場所も親も分からないですし、男か女かも選べません。何一つ自分では決めることができないのが誕生です。つまり、全部いただきもの、両重の因縁と言われますが、いただいたいのち、縁をいただいたということですが、そのいのちは一時的に預かったいのちということであり自分の所有物ではありません。そして、そのいのちは預かりものですからいずれお返しする日がくるということです。そのいのちは、十代さかのぼれば二千人以上の遺伝子の一部を受け継いでいると聞きますが、自分の遺伝子、自分のいのちと言えるものは無いにもかかわらず、俺のいのちというつもりで生きています。因縁和合して生まれ、因縁和合して死んでいくにもかかわらず、いのち事実に帰らず、自分の解釈、都合に帰り、我執をいのちとして生きています。縁起の道理に目を覚ます教え、お念仏の教えを、落語を通して教えてもらいました。

 さて、そんな私は札幌出身札幌育ちの44歳になります。両親には高校卒業まで育てていただき、地元で就職してから紆余曲折を経て迷いに迷いを重ね生死いずべき道を求めていよいよ八王子にたどり着いたのです。そんなお寺出身ではない普通のサラリーマンの家庭で育った私は良く聞かれる質問があります。「どうしてお坊さんになったの?」という質問です。私は決まって、「ろくでもない人間だから坊さんになったのです」と答えます。何故なら立派だから坊さんになったわけではないからです。そして、立派になるために坊さんになったわけでもありません。正直私は世間から逃げ出して坊さんになりました。世間から逃げ出して坊さんになったにも関わらず、その坊さんからも逃げ出したいなと思うことがあります。つまり、どこに逃げても逃げ場所はない、今を引き受けて生きる以外に道なしという事に気づかされ、かろうじて続けて来られたように思います。続けて来たならどこまでも自力です。続けて来られたなら他力のおはたらきなのだと思います。無数のご縁をいただいて勤めてこられた不思議さを今さらながら感じています。

ある先生が「念仏申したから救われるのではありません」と言われました。念仏申さなければ救われない我が身であるということです。坊さんになったから救われるわけではありません。坊さんにならなければ救われない私ということです。お寺にお参りしたから救われるわけでもありません。お寺に参らなければ救われない私ということです。つまりどこまでも救われない、助からないという自覚が一大事だぞと先生は教えてくださいました。そして、念仏申したくらいで救われてしまっては元も子もないぞと先生はおっしゃってくださったのだと思います。

真宗は何はなくとも聞法に尽きると言われますが、聞法とはお念仏のみ教えをわが身に引き当て聞くということです。それはお念仏のみ教えの通りに生きて行くということではありません。聞法とは自分の解釈で教えをつかまえて教えの通りに救われた自分に安心することではありません。仏のおはたらきは、どこまでも私をつかんで離さず救いとは何かと常に私に問いかけ続けてくださるおはたらきです。そして、どこまでも安心を許さず胡坐をかかせないような厳しさを持った教えです。先ほど、聞法とは教えの通りに生きて行くということではないと言いました。何故なら私は教えに背き続けて生きざるおえない罪悪深重煩悩具足の凡夫であり業縁存在の身だからです。その証拠に今までまがりなりにも聞法してきたにも関わらずこれでもうすべて救われて絶対安心と言える自分はどこにも存在しません。そして、今まで聞いてきた言葉の数々は右の耳から入って左の耳から抜けていってしまい、たとえ必死に覚えようとメモして自分の知識にしたつもりでも他を批判する道具に使うくらいが関の山です。教えとは教えの通りに生きて行ける私の為にあるわけではありません。教えに背き続けている私の為にあるのです。例えば「欲を離れよ」という教えがありますが、はたして実現可能でしょうか。多少我慢するくらいが関の山です。欲がなければ生きてゆく事が出来ないにも関わらず何故欲を離れよという教えがあるのでしょう。つまり、欲を離れる事を目的としているのではないのです。差別を無くし仲良くしましょうという教えもそうです。そんな素晴らしい立派な教えがあるにも関わらずなぜ世の中に戦争が無くならないのでしょうか。たとえ世の中にどんなに立派な優れた教えがあっても教えの通りに生きてゆけるのであれば教えは必要ありません。教えに背き続ける私がいるがゆえにそれでいいのかと常に私に問いかけ呼びかけ続けてくださる。それが教えの持つ大切な意味です。人事ではなく私自身の聞法の姿勢が問われています。迷いに迷いを重ね、どこまでも救われ難い助からない罪悪深重煩悩具足の凡夫の身ではありますが、だからこそと生死いずべき道を求め今を精一杯に生き、教えに背き続けている自分を知らされ続ける以外に救いの道はないのだと思います。

南無阿弥陀仏