生きる

あなたは今、生きていますか。

「そんなこと、あたりまえじゃないか。」

そう思う人もいるでしょう。では、「あなたは今、活き活きと生きていますか」と聞かれたらどうこたえますか。

「いのち」は無条件で尊く、かけがえのないものです。そして、それは自分で自由に作れるものではありません。また、目に見えるものでもありません。

鳥のはばたき、駆け回る犬の姿、咲きほこる花々、そして街を行き交う人間の営み。そのすべてがいのちの姿であり、「生きている」ことです。

しかし、ここでもう一度考えてみましょう。呼吸をし、血液が流れ、心臓が動いているから「生きている」のでしょうか。食べたり、遊んだり、泣いたり笑ったりしているから「生きている」と言えるのでしょうか。「動いていること」と「生きていること」はどう違うのでしょうか。

釈尊は亡くなられる前に、長年そばで教えを聞いてきた弟子阿難の「残された者は、これから何をたよりに生きていけばよいのでしょうか」という問いに、

「自灯明法灯明」(じとうみょうほうとうみょう)と応えられました。

自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

『大般涅槃経』

それは、決して人に流されて生きることなく、自分をたよりにして、いわば自分であることに安心して、自分として生きなさいということです。それは、自分勝手な思いで自己を肯定し、「私は正しい」という思い(=わがまま)で生きていくのとは違います。釈尊の示された真実の教えによって照らされ、その道理によって明らかにされた自分(=あるがまま)に気づくことが大切なのです。

私たちの人生は、さまざまな困難や不自由と出会わなければならないものなのです。人は必ずしも自分の思い描いた通りの人生を生きることはできません。

しかし、その思い通りにならない現実から目をそむけることなく向き合い、わがままな自分自身に「これでいいのだろうか」と問いかけませんか。そこで、人は大切な教えと出会い、「ほんとうの人間」となっていくのではないでしょうか。その中からはじめて「活き活きと生きる」意欲がわき上がってくるのではないでしょうか。

あなたは今、活き活きと生きていますか。

『生まれる生きる生かされる」(東本願寺出版)より

繭人間

足繁く通って、これで何回目のパソコンの修理だろう…
てか、寿司屋のカウンターみたい。
5.6年に一回は壊れるように出来てるとしか思えない🤔
パソコンの使い方が悪いのかな。
やっとデータのお引越しがほぼほぼ終わり、心機一転新しいパソコンとの生活が始まろうとしております。

落ち込んでいる僕を励ましてくださった先生の言葉が、今1番響いております。

「日中も陽気は楽になりましたね。どうぞ落ち込みすぎませんよう。なにとぞ坊守様とご相談なさりながらお進みくださいませ。ニッパチの日を大切に第一にされるのは大変けっこうなことと存じます。が、一つに集中すると依存性も生まれますし、ひとつのミスにも大ダメージを受けてしまいます。行動も関心も分散するほうをお勧めします。また飲みに行かせてください。開店日が分かりましたらお示しを」

嬉しい😹
何もかもやる気が無くなって自暴自棄になってしまい(パズルではありません)、勉強会や研修会の参加を遠ざけて殻に閉じこもっている自分の背中を押してくれる言葉です。有難う御座いました🙏🥹
しかし、だからと言って繭人間から解放されたわけではありませんが…

「このことは、ただ生と死の問題に限らないで、我々において「こうしたい」という思いと、「そうならない」という現実との間にある、その矛盾をも全て生死の問題として成仏道に関わる問題とされてきている。その問題が解決しない限り、我々はほんとうに安心できないからである。

実はこの生死の問題の解決に関して、その一つとして「どうすれば」というHOW TO方式がある。それはまず、一、自分自身の実力を蓄え、自分の思いが叶うように現実を変えていこうとする。この場合は、やがてということであって、未来にそうなることを信じてやっていくことになる。しかし必ずそうなると言い切れないため、いつでも不安が残ってしまう。自力作善の人の問題もここにあった。

さらに、二、として、絶対的な権威なり権力なりを持つ生き神とか生き仏とかの絶対者を立てて、そのものとの関係において現実が自分の思いに叶うようにになることを期待している。この場合は、その絶対者の力を信ずることだけが自分を安心させることになる。もし不審があれば、たちまち不安になってしまう。そのため狂信的になりがちである。親鸞聖人は、そういう生き神とか、生き仏とか、我々の運命を左右する力を持つと信じられている絶対者を「鬼神」とされ、鬼神の言葉を信ずれば、信じた者がその鬼神の奴隷にされてしまうと批判されている。

さらに聖人は、鬼神について、冥衆(みょうしゅう=目に見えない形)としての鬼神と、顕衆(けんしゅう=目に見える形)としての鬼神を見出し、厳しく批判されている。冥衆としての鬼神は、冥界・魔界を支配する天神地祇(てんじんぢぎ)とか、五道の冥官とかである。顕衆としての鬼神とは、絶対的な政治力、経済力を持つ支配者とか権力者のことである。聖人は「余のひと」(守護・地頭・名主)として示されている。しかしこれらの鬼神の問題は、聖人においては、そういう外なる鬼神とその鬼神を生み出す我々の内なる鬼神をも徹底して批判されている。

三、として、自分の思うようにならない現実の中で、すべてを諦めて絶望的に生きてしまう。この場合は生きながら死人になってしまうことであるから、どのような矛盾も自分で消していくことになる。さらに最後に、四、自殺することである。この場合は自分の思うようにならない現実を、自殺することによって拒否し、自分の思いを通そうとする。

これらの「どうすれば」というHOW TO方式による解決方法は、我々の思い、自我意識を大前提にして現実を変え、その矛盾をなくそうとすることである。しかしそれは、現実を受け入れていないため、どうしてみても現実に心を閉ざしたまま、思いの中だけの幻想になってしまう。このことは仏によって「蠶蚕自縛(さんけんじばく)」として示されている。蚕(かいこ)は口から糸を吐いて自分自身のまわりに繭(まゆ)を作り上げ、その繭の中で自分を閉じ込めながらサナギに変身していく。そのことに喩えているのである。我々の生死の中での生活は、そのようになっていると教え、それが三界六道の世界として示されている。

この世界からどう出離して、今・ここの現実に立ち返り、この現実を生きることになるのか。その我々の問題に対して、仏は出離生死の道として、どうすればというHOW TO方式とは異なる、なぜそうなるのか、その因を問うWHY方式を示して、その生死の問題、矛盾の問題の解決を示されている。それがいつでも大前提となっている。その自我意識こそ問題ありとして問い、その自我意識を離れさせ、生死を平等に受け入れることのできる如来の智慧を、我々に「信心」として与えることによって助けようとされている。」

《平成6年(1994年)5月30日》竹中智秀院長講義より

パズル

なんということでしょう…

半年以上かかった難攻不落のパズルが、もろくも崩れ落ちてしまったではありませんか…

窓際に置いてたのが悪かったのかな…猛暑続きで糊が剥がれてしまったのだと思います…

さすがに完成して7年の月日は経ってるとはいえ…

今は何も考えられません…そっとしておいていただけたらこれ幸いかと存じ申し上げます🥹

BBQ

ご近所のBBQにお呼ばれ🍖
やっぱりみんなで食べると美味しいね😋
ご馳走さまでした🙏😌

宴の後

坊主バーオープン♪
暖かく優しいご近所さんに囲まれて幸せ者です🙏🥹

ノーベル賞

「はたらく細胞」を見ていたおかげで、今回のノーベル賞受賞の内容をなんとなくですが理解出来ました。新聞のコラムには、
「こうした細胞の存在を疑う研究者も多く逆風にさらされたが、根気強く研究を進めて1985年に存在を示した。95年にはこの細胞の特定に成功し制御性T細胞の発見者となった。」

なんと40年前以上から研究が進めらていて、ノーベル賞受賞まで半世紀近く経っていたのにはびっくりしました。
昨日今日の発見ではノーベル賞は受賞出来ないということである。

「免疫は外敵だけを排除するが、自分の細胞と外敵をうまく区別できなくなると、自分自身を攻撃して傷つける自己免疫疾患になってしまい、制御性T細胞の働きを操作すれば、ぜんそくなどの免疫が関わる病気を治療できると期待されている。」

のだそうだ。

▶「何事も人間のやることは時間がかかる」とも科学誌「ニュートン」に語っている。研究の世界は、はやり廃りがあるが、じっくり、ゆっくり続けていく。「何事も簡単に手に入る時代だからこそ、それを忘れないように」
▶冒頭の話に戻れば、自己と非自己の違いは、自分とは何かという深遠な問いにつながる。揺らぎがあっても自分をひたすら信じ、楽しむ。卓越した科学者とは、そうした存在なのか。」(新聞のコラムより)

自分とは何か?まさに仏教もこの問いから始まる。
自分を傷つけているのは、何もT細胞だけではない。輪番がよく仰っていた。「皆さん嫌な教えにあいましたね」と。決して、立派で素晴らしい教えにあいましたねとは言わなかった。教えを聴いても教えの通りに生きていく事が出来ない。教えの通りに生きていく事が出来れば教えは必要ない。教えに背いているからこそ、教えが響いてくるのである。背き続ければ背き続けるほど、いよいよ教えは光輝く。
自分を傷つけているのは、教えに背いている自分自身であった。

ドストエフスキーの罪と罰という有名な小説があります。そのなかにソーニャという娘の飲んだくれのおやじがいます。その飲んだくれのおやじが飲み屋で演説をしている。その中に、こういうセリフが出てきます。自分は罪深い人間だから、娘が娼婦で稼いだ金で私は飲んでいる。こういう罪深い男だから、決して神様は救ってくれないだろう。最後にどんな死にかたしてもそれは当然だ。けど、ひょっとすると神様はこういうかもしれない。罪深い者よ、自分自身到底教われないと思っているがゆえに、私は汝を救うと。そういう説をいうんです。これは不思議な論理です。到底私は救われないに違いない、けれどもしかしたら救われないと思っているがゆえに汝を救う。きっと救ってくれるに違いない。救われないはずのものが、救われていく。救いにあずかる。ドストエフスキーはキリストの教えを小説に反映しているかわからないけれど、もしかしたらキリスト教のなかにそういう教えがあるのかもしれない。救われるはずがないという自覚において、法がしからしめられた、法のはたらきによって透徹して自己をしらしめられた出来事です。言葉です。不思議な逆説的な表現です。蓮如上人も言われます。遠きは近き道理なり。近きは遠き道理なり。全く世間とは違う表現です。これは何を言っているかというと、一歩一歩道を歩んでいるとします。私は頑張ったからここにいるんでないかなと言った時は近きは遠き道理なり。これは一番遠い。その人間の思いこみ、自負心、プライド、これはもう仏道をけがすもの何物でもない。歩みになっていない。善人は手間暇かかるといいます。むしろ遠きは近き道理なんです。汝一心に来たれということは、弥陀の召晩の言葉は汝一心に来たれと言われています。来いということはどういうことなんでしょうか。来いということは、本当の凡夫に帰れということです。まだましな凡夫だと思っていた。なんか救われるに値する。大したことことしてないけど、もしかしたら救われるかもしれない。まだ自分に夢を持っていた。その夢を崩す。本当の凡夫に帰れ。来たれということは、行けということなんです。汝自身であれということなんです。私達はいつも夢を見ていたいし、なんか舞い上がっていた。それを足を地につける、本願召喚の勅命は凡夫が凡夫に帰されていく、地平に立て、汝自身であれ、そういうことなんです。全く世間の認識とは違う逆説ですけど、その中に人間の目を目覚めさすような、仏のはたらきというか、人間の智意をもってしてどうかなる話ではなくて、如来の教法によって、機が徹底して深くせしめられる。そのことは法のはたらきそのもの。徹底的に親鸞聖人は法性法身の世界、そこから方便法身の世界が生じて、決定して仏道を歩ましめんというはたらきをもって法性法身の世界にふれせしめようとする。命を自然に帰そうとするはたらきが、弥陀の本願です。(北海道教学研究所所長巌城孝憲)

研究というのは何か知りたいという好奇心なので、簡単には信じない。教科書に書いてあることは信じない。本当はどうなっているか?山のようにある情報の中で、自分の目で物を見て、自分で確かめる“疑う事の大切さ”を持って、積み重ねていこうと思います。

「聞法とは、積み重ねるのではなく、繰り返す事である。」