手紙

今年は11月でおじさん(先代住職)の七回

忌。早いなぁ。

いろいろな思いはあるけれど、書類を整

理していたら古い手紙が沢山出てきた。

おじさんの手紙、母さんからの手紙、先生からの手紙…

まだまだひよっこ。お世話になりっぱ

なしです。

南無阿弥陀仏

あとを頼むの声に応える

私が京都で学んでいたときに、ある人が死の恐怖ということを問題にされました。

死ぬということが恐ろしいと、どうにもならないからこそ不安でおびえると、そういった人生の素朴かつ根本的な問題を訴えられました。

それに対して狐野秀存先生が、親鸞聖人の最後のお手紙を紹介されました。日付から見ておそらく亡くなる二週間前の手紙だと推測されるのです。そこには「あとは頼む」ということが書かれているのです。

亡くなることはお手上げということです。自分の目の黒いうちは何かとやることはできますが、死に際してはもう無力としかいえません。もはや力及ばずです。親鸞聖人も同じで、そういう悩みがあったようです。それで親鸞聖人はどうされたのか。「あとを頼みます」「皆さんどうかよろしくお願いします」そのようにはっきりと託されたのです。

そういうお手紙を狐野先生は指して、あとを頼める人がいる、あとはよろしくとお願いできる人が私にはいる、これが死の恐れ不安を超える道ですよと教えられたのでした。

「あとを頼む」と言えることは信頼できる人がいる、任せられる人が側にいるということで

す。それが死の孤独や恐怖を超えさせてくれるわけです。もしそういうことが言えないとどうなるかといえば亡霊になるわけです。死んでも死にきれない存在にならざるをえない。

ですから人生に幸福や安心を与えられるかどうかは「あとを頼む」の声に応える私たちにかかっているともいえるのです。(上宮寺だよりより)

南無阿弥陀仏

ここまで立派になるのは20年くらいかかるのかな🤔

それ以上??

もうちょい左に植えた方が良かったかも😹

壁と接近しすぎかも

南無阿弥陀仏

大阪

身内のように親しくさせていただいているお寺の

前住が急逝された。

悲しい。

南無阿弥陀仏

尼僧

先日、坊守がお勤めをさせていただいた

喪主様から四十九日のご依頼が。

ぜひ、次も坊守さんでお願いしますとご

指名が。

え?僕ははじめましてのお宅だから行き

たいな〜と思いながら、快諾。

薄々気付いてはおりましたが、どうやら

僕より人気があるようです笑

坊守には常々住職ではなく、坊守に来て

ほしいと言われるくらいでなきゃねとは

言っておりましたが、まさかこんなに早

く頼まれるとは🥴

でも中には、尼僧はお断りと言う葬儀社

もあって、この業界まだまだ時代に追い

つけない古い体質なんだな〜と感じた出

来事のあとだったので、自分のことのよ

うに嬉しかったです。

南無阿弥陀仏

「過ちが人間を決めるのではなく 過ちの後が人間を決めるのです」東井義雄師


「いいことをした人(因)は、いい目にあう、善い人になる(果)」「過ちを犯した人(因)は、悪い目にあう、悪い人になる(果)」このように私たちは知らず知らず、「いいことをしたらいいことがおこる」と考えています。この考え方を善因善果、悪因悪果といいますが、仏道の因果の教えではありません。しかし、私自身この考えに染まっていることを感じます。

 とくに子供に接しているときに「ちゃんとしとったら、いいことあるよ」とか、「悪いことする子は、嫌な目にあうよ」という言葉で出てきます。良いことをしたらほめられて、賞が与えられます。悪いことをすると怒られて罰が与えられます。私たちの世間を支えている善悪の原理です。しかし、よくよく考えなければならないのは、善いことをしても、善い結果がついてくるとは限りません。善いことをして、善い結果が付いてくるのは、善い縁に巡り合ったからです。

 この世のことを仏教では娑婆(しゃば)と教えています。これはインドのサハーという言葉の音を写した言葉で、意味を取って訳をされたものは堪忍土(かんにんど)とよばれます。意味は「耐え忍ばないといけない世界、思うようにならない世界」です。善いことをしたら、善いことが起こるという世界でなくて、なんでも起こってくるのがこの世界だと、この世を言い当てた言葉です。ですから何が起こってくるかは誰にもわからないのです。

 例えば、ひとたび自然災害が起これば、善いことをしようと心がける人、何にも思っていない人。信仰をもっている人、いない人、祈願していた人、していない人、平等に被災します。厳しいことですが、何が起こってくるかわからないという状況は変えられません。そして、その何が起こってくるかわからない世界と同じで、状況次第で私の心も何が飛び出してくるかわかりません。

 例えば、どちらかが避けないと通れない狭い道に車で入っていって、対向車が自分よりも先に避けてくれると、「申し訳ない」「ありがとう」という気持ちが起きますが、逆に避けるそぶりもなく、こちらに来ると腹が立ってきて、絶対に譲りたくないような心が出てきます。私たちは状況次第、出遇った物事で行動がかわります。善いことをしようと思って善いことをする、悪いことをしようと思って悪いことするのではなくて、状況、縁に随うのです。

 今月の言葉の、前半にある「過ちが人間を決める」という言葉の裏には、「気を付けてさえいれば、人間は過ちを犯さずに生きれる。過ちを犯す人間は、日ごろのこころがけがなっていなかった」という人間観、世界観があるのでしょう。

 仏教は「因はこれ善悪、果はこれ無記」と教えられます。起こってきた結果は、苦楽であって、善でもないし悪でもない。私たち一人一人がその起こってきたことをどう受け止めるかを問題にします。例えば、人を傷つけてしまったという過ちを、罪悪感、苦として受け止めるならば、そのことを恥じるがゆえに、その何が飛び出してくるかわからない私のこころを照らし出す、仏法に教えられていこうという歩みがはじまることになるでしょう。

消してしまいたい過去の過ちも、そのことが自分を大切なことに目覚めさせる出来事に変えていくかどうかは、私たちがそのことをどう受け取るかで決まるのだと思います。(福生寺HPより)

南無阿弥陀仏

ニッパチの日

今日はご命日のつどい(8回目)

一か月経つのが早い!😅

御門徒さんから、寺子屋子ども食堂しよう!!

とお手伝いするからと声をかけてくださいました😹

有り難いことです🙏😌✨

南無阿弥陀仏