読み破ったご褒美なのか、お弁当をいただきました🙏😹
今日も無事、お勤めを終えることができました。
昭和法要式も、だいぶ年季が入ってきました🙏
「読み終えた」ではなく、
「読み破った」という言葉がピッタリ?です
そして帰りには、立派なお弁当までいただきました🙏
ご褒美ですかね〜😹🍱
有り難くいただきます🙏😊
有難う御座いました‼️



住職の独り言ささやきです。親鸞聖人は小さなつぶやきやささやきに耳を傾けて人々の言葉を聞き逃さなかった方だと思います。
読み破ったご褒美なのか、お弁当をいただきました🙏😹
今日も無事、お勤めを終えることができました。
昭和法要式も、だいぶ年季が入ってきました🙏
「読み終えた」ではなく、
「読み破った」という言葉がピッタリ?です
そして帰りには、立派なお弁当までいただきました🙏
ご褒美ですかね〜😹🍱
有り難くいただきます🙏😊
有難う御座いました‼️



「もう、絶対一生口きかない‼️」
と、思ってたのに……
思いって、続きませんね…。
なんと、無事カードが見つかったのである。
警察に届いていました🙏
どなたが届けてくださったのか分かりませんが、本当に有難うございます🥹
世の中、まだまだ捨てたもんじゃねーですね。
そして昨日は、
「なんで失くすんだ‼️」
「なんで正直に言わないんだ‼️」
と腹を立て、
「もう一生口きかない‼️」
とまで思っていた私。
ところがカードが見つかった途端、
「よかったね〜😹」
である。
怒りも、腹立ちも、喜びも、
ずっと同じところには留まってくれません。
昨日あれほど腹を立てていた自分は、
いったいどこへ行ったのでしょう。
「一生口きかない」の“一生”は、
一晩ももちませんでした🙏😹
さて……
法事🙏
↓
葬儀🙏
↓
警察へカードを受け取りに🚓
↓
郵便局で紛失停止を解除🏣
↓
還骨法要
忙しい〜〜🙏💦😹
でも、見つかって本当によかった。
届けてくださった方に、改めて感謝です🙏🙇



今日はお寺でご法事🙏
睡蓮の蕾が顔を出しました😌
今年はまだ一個しか咲いてないので、待ち遠しいです😹





アウシュビッツや戦争をTVで見て、
「なぜ人間は争うのだろう」
「なぜ人間はこんな残酷なことができるのだろう」
と考える。
ところがテレビを消せば、そこには自分の生活がある。
妻がキャッシュカードを失くした。
正直に「失くした」と言えばいいのに、嘘をついた。
すると腹が立つ。
「なんで正直に言わないんだ」
「失くしたことより、嘘をついたことが腹立つ」
そういう思いが次々と湧いてくる。
もちろん、夫婦喧嘩と戦争や虐殺を同列に扱うことはできない。規模も責任も苦しみもまったく違う。
でも、「争いというものは、自分とは無関係な遠い世界だけにあるのか」と仏法から問われれば、そうとも言い切れない。
自分が正しい。
相手が悪い。
謝ってほしい。
分かってほしい。
許せない。
その瞬間、私の世界には「私」と「相手」ができる。
六道は死後の世界ではなく、私たちの生きている姿としていただけば、本当に、
生活が六道を輪廻している。
腹が立って修羅になり、
欲しいものを求めて餓鬼になり、
都合よくいけば天上にいるように喜び、
少しすればまた腹を立てる。
朝、仏さまの前で手を合わせて頭を下げたその日のうちに、妻には頭が下がらない。
だから、
真宗の仏道は、生活を離れたところにあるのではなく、生活のただ中にある。
という言葉が、急に現実味を帯びてくる。
お経をいただいてるときだけが仏道を歩んでいるのではない。
キャッシュカードを失くしたと聞いた瞬間も仏道。
嘘をつかれて腹を立てているときも仏道。
「俺は悪くない」と思っている、その私が照らされるのも仏道。
そして、
「六道から抜け出して立派な人間になってから、仏道を歩む」のではない。
わかっちゃいるけど、やめられない。
分かっていても腹が立つ。
教えを聞いていても妻を責める。
戦争を見て「人間はなぜ争うんだ」と嘆いていた本人が、その日のうちに家庭で争っている。
そこで、
「ああ、人間とは愚かだ」
ではなく、
「ああ、“人間”とは私のことだった」
となる。
ここに聞法がある。
「苦しみのない世界を教えてください」と願った韋提希夫人。
私も「戦争のない世界になれば」と願う。
でも、その私の日常には争いがある。
だから浄土を願うということは、単に「どこかに争いのない理想世界がありますように」と願うだけではなく、その浄土の光によって、
争いをなくしたいと願いながら、争いをつくっている私自身が照らされる。
その生活のただ中で南無阿弥陀仏を聞いていく。
そう考えると、
「真宗は生活のなかで仏道を歩む」
という言葉は、きれいな生活をするという意味ではなく、
六道を輪廻している、このどうしようもない生活そのものが聞法の道場になる。
救いとは、六道を輪廻しなくなることでも、腹を立てない立派な人間になることでもなく、六道を輪廻するほかない私が、その私を見捨てない仏の光に遇うこと。
そして「救われたから、もう争わない」ではない。
今日も腹を立てる。
今日も「俺は悪くない」と思う😹
それでも、そのたびに、
「ああ、凡夫とは私のことだった」
と帰ってこられる場所がある。
南無阿弥陀仏
今日ラジオを聴いていたら、
千葉の大雨被害を受けて、
「雨雲レーダーを見ながら避難の判断をする」
「雨雲レーダー様様ですね」
というようなお話をされていました☔️
確かに雨雲レーダーは便利です。
私もよく見ています。
でも、昨日のこと。
雨雲レーダーを見ると、周辺にはほとんど雨雲がない。
「しばらく大丈夫かな」
と思っていたら……
突然の土砂降り☔️💦
雨雲レーダーには、ほとんど雨雲が映っていないのに……。
雨雲レーダーは、観測や予測に基づく大切な情報の一つですが、未来を100%言い当てるものではありません。
だからこそ「雨雲レーダー様様」という言葉に、少しだけ違和感を覚えました。
実際、気象庁もナウキャストについて、
「予測されていない地域でも積乱雲が急に発達する場合がある」と注意を呼びかけています。
線状降水帯についても予測技術は進んでいますが、正確な発生場所や時間を予測することは、まだ難しいとされています。
もちろん、
「だから雨雲レーダーなんて役に立たない」
という話ではありません。
とても便利ですし、防災にも役立つ大切な情報です🙏
ただ、
「雨雲レーダーに何も映っていないから大丈夫」
「まだ降らない予報だから大丈夫」
と、100%信用してしまうのも少し怖いなと思います。
警報や避難情報、実際の空の変化や雨の降り方など、いろいろな情報を合わせて判断する。
科学や技術がどれだけ進歩しても、
自然は時として、人間の予測を超えてきます。
雨雲レーダーを「信用しない」のではなく、「過信しない」
昨日の突然の土砂降りと、今日のラジオを聞きながら、そんなことを思いました🙏☔️
千葉の大雨により被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
一刻も早い復旧をお祈り申し上げます。
今日もスタッフから、メッセージカード初めていただきました。有難う御座います。大切にします。スマホケースに入れて御守りにします。なんか縁起が良さそうだからと😹
「あなたが、そのカードが必要無くなり、捨てる時が一番いい日です」
と、カッコよく言いたかったですが、言えませんでした😹
完全にメッセージカードが御守り化しております。

「法話って、落語の新ネタ披露じゃない」
開教所には、いわゆる直参の御門徒さんがいません。
維持費をいただいている「檀家さん」がいない、ということです。
でも、維持費をいただいているかどうかに関係なく、仏法を聞くご縁によってつながっている方々を、私は「御門徒さん」といただいています。
お金によるつながりではなく、仏法によるつながりです🙏
最近、以前お勤めさせていただいたご家族・ご親戚から、再びご葬儀のご依頼をいただくことが続きました。
「前回の法話がとても良かったので、またお願いしたい」と。
有り難いお言葉です🙏
……が、同時にものすごいプレッシャーです🙏💦
「さて、今度は何を話そう」
「前と同じ話ではダメかな」
「いや、前の話が良かったということは、同じ話を聞きたいということなのかな」
いろいろ考えさせていただきました。
でも考えてみれば、法話は落語の新ネタ披露ではありません💦
毎回違う、話を用意することが法話ではない。
お勤めだってそうです。
毎朝、毎夕、同じお経をいただく。
同じ「南無阿弥陀仏」を何度も何度も称える。
同じ言葉であっても、聞いている私が同じではありません。
昨日聞いた言葉と、今日聞く言葉。
元気な時に聞く言葉と、大切な人を亡くした時に聞く言葉。
同じ言葉なのに、まったく違って聞こえることがあります。
だから大切なのは、
「今日は何か新しいことを話そう」ではなく、
「今日も大切なことを聞かせていただこう」
なのかもしれません🙏
法話をする私も、聞いてくださる方も、ともに仏法を聞かせていただく御門徒。
そう考えると、直参の御門徒さんがいない小さな開教所にも、少しずつ少しずつ、仏法によって結ばれた御門徒さんが増えているのかもしれません。


葬儀の簡略化は、「終活」ということの中で、「子どもに迷惑をかけたくないから」とよく言われます。遺された家族や近親者が、いざという時に困らないようにしておくのは大切なことです。しかし、それは迷惑をかけることではありません。「誕生」も「死」も、お互い支え合って、はじめて成り立つのですから。(本文より)
果たして人は迷惑をかけずに生きていけるだろうか。
「人は2度死ぬのだから、精一杯迷惑をかけてください。とことん迷惑をかけておけば、忘れられませんから」
と、言う言葉が忘れられません。



こういうのを見ると、「#僧衣でできるもん」が思い出されますね😹🙏
2018年9月、僧侶が僧衣で軽自動車を運転し、福井県警から青切符・反則金6,000円を告知されました。
当時の福井県の細則には、
「下駄、スリッパその他運転操作に支障を及ぼすおそれのある履物または衣服」
という規定があり、僧衣の袖や裾が運転操作の妨げになるおそれがある、と判断されたそうです。
これに宗派側も「到底受け入れがたい」と反発。
そして全国の僧侶たちに広がったのが、
「#僧衣でできるもん」
でした🙏😹
最終的に福井県警は、
「証拠の確保が不十分で違反事実が確認できなかった」
として送致しないことに。
つまり厳密には、
「僧衣での運転は合法」という司法判断が出たわけではなく、この僧侶について違反事実を確認できなかったため、処理を取りやめたということです。
さらに興味深いのが、その後の福井県。
現在の規則では「衣服」という文言が消え、現行第16条3号は、
「下駄、スリッパその他運転操作に支障を及ぼすおそれのある履物」
となっています。
とはいえ……
雪駄はグレーゾーンには変わりないですな😹
「僧衣だからダメ」
「雪駄だからOK」
と全国一律に単純化できないのは、道路交通法そのものというより、各都道府県の道路交通規則・施行細則で定められているため。
「運転操作に支障を及ぼすおそれのある服装・履物」をどう判断するのか、現場の判断も含めて差が出てしまうので、なかなかややこしいのであーる😹
それにしても、
「#僧衣でできるもん」でドラムを叩いていたのが懐かしい🥁😊
とにもかくにも、全国の僧侶の皆さん、お盆参りお疲れ様です🙏
どうぞ、ご安全に‼️
僕も昔はカブで回ってたな〜🙏😹

昨日、メッセージカードをお渡ししたスタッフさんから、
「前にも違うところでいただいたカード、大切にスマホケースに入れて持ち歩いてるんです😊」
と、見せてくれました。
まさか、ずっと持っていてくれたとは🥹🙏
そして今回お渡しした2枚目も、
「これも大切にします。御守りにします😊」
と😹✨
御守りを作ったつもりはないのに、
御守りになっていたとは🙏
ほんの小さな一枚のカードでも、
そこに込めた言葉や想いは、
自分の知らないところで誰かの心に残っているのかもしれません。
こちらの方が、嬉しい言葉をいただきました😊
「実はこれ、坊守が書いてるんです」
と言ったら、
「それなら尚更嬉しいです😊」
と😹✍️✨
その昔、毎月『同朋新聞』を月忌参りでお配りしていた頃のこと。
あるお宅へ伺うと、先月お渡しした『同朋新聞』が、ぐちゃぐちゃになって花瓶の下敷きになっていました😹
一生懸命お渡ししても、
読むか読まないかは、その方にお任せの世界。
任せられたら楽になる。
任せられないから苦しくなる。
メッセージカードも、9割くらいの方が感謝の言葉をくださいます🙏
でも時々、
「受け取った方も、処分に困ってるんじゃないかな〜😹」
なんて思うこともあります。
以前には、
「葬儀社の事務室に、メッセージカードが大量に保管されてましたよ😹」
と教えてくれたスタッフさんもいました。
スマホケースに入れて御守りにしてくださる方もいれば、
事務室に保管されるカードもあり、
もしかしたら、そのまま処分されるカードもあるでしょう。
それでいいんだと思います🙏
こちらは、ご縁をいただいた感謝を込めてお渡しする。
その先は、お任せ。
受け取るもお任せ。
読むもお任せ。
残すもお任せ。
捨てるもお任せ。
「どうか大切にしてください」ではなく、
「受け取ってくださって、有難うございます🙏」
そこまでが、私たちにできることなのかもしれません😊
「南無」とは、帰依します、帰命しますということ。
自分の思い通りにしようと握りしめるのではなく、
お任せしていく。
任せられたら楽になる。
けれど、なかなか任せられない私がいる。
そんな私だからこそ、
南無阿弥陀仏🙏
なのだと思います。


