ここにある

お寺の社会的存在意義を端的に表現されたメッセージとして、選ばせていただきました。仏教で謳う抜苦与楽の価値を生活者に届けていく存在として、お寺がこれからも末永く続いていきますよう。そして、一人でも多くの生活者が、「まいてら(私のお寺)」と思える良きお寺とのご縁が結ばれていくことを願っております。(輝け!お寺の掲示板大賞2024より)

「たとえお寺が、地域社会から必要とされ、人々が集う場所になったとしても、寺に身を置く私一人に「念仏の信心」がなければ、ご門徒さんや、地域の人々との交わりの中で、自分自身のあり方が問われ、自分の狭さが開かれていくということがなければ、それは真宗ではない。仏道ではありません。人々の交わりの中に身を置き、交わりの中のざわめく声を聞いていける。そして、関わりの中に立ち上がっていく勇気を賜る。」(波佐谷宏昭先生)

それが、開教であり念仏者といただいております。

お野菜の提供

今月も子ども食堂のお野菜(ルッコラ、水菜、サンチュ)の提供をいただきました♪いつもこんなに沢山有難う御座います🙏😌✨皆んなで美味しくいただきたいと思います😊豚丼にピッタリですね‼️

他力本願

「可愛いカード有難う御座います♪」

嬉しい☺️

コツコツと地道にメッセージカードを続けております🙏😌
やったなら自力です。
やれたなら他力です。
浄土真宗は他力本願の教えなのです🙏

1年ってあっという間

ついこの前、年が明けたと思ったらもう秋彼岸の最終日。
1年ってあっという間早いですね。

昨年の大晦日一緒にお寺で年を越したご近所さんとのお話し、大晦日は朝4時まで飲んでましたねて笑
今年も一緒に年越しましょうと言ったら、嬉しそうに今年も年を越せる場所があると喜んでくれました。嬉しかったです🙏😊有難う御座います😌

ほとけの子

「世界で一番貧しい大統領」。本年五月に亡くなったウルグアイ元大統領ホセ・ムヒカ氏は、日本でこのように紹介された。ただ本人は「多くのものを必要とする者こそ貧しいのだ」としてその呼び名を意に介さなかったという。彼のスピーチの根底に流れる人間観は、現代日本人にも多くの気づきを与え、大きな共感をもって迎えられた。
次の一節は、彼が日本の子どもたちに向けて語ったメッセージである。
「日本にいる子どもたちよ。君たちは今、人生で最も幸せな時間にいる。経済的に価値のある人材となるための勉強ばかりして、早く大人になろうと急がないで。遊んで、遊んで、子どもでいる幸せを味わっておくれ。」
振り返って思う。私たちは「価値の高い人間(人材)」に「なる」ことに躍起になり、いつのまにか子どもたちにもそのことを求め過ぎてはいないか。「遊んで、遊んで、子どもでいる幸せを味わっておくれ」との眼差しで子どもたちを見つめる優しさを、そこに「いる」ことだけで感じる愛おしさを、どこかに忘れてしまってはいないか。
夏休み期間には「真宗本廟子ども奉仕団」・「真宗本廟中学生・高校生奉仕団」・「同朋ジュニア大会」が開催され、たくさんの小・中・高校生が同朋会館に宿泊し、色々な体験に参加してくれた。
「わたしがわたしのままに」「きみがきみのままに」だれもがみんなほとけの子さあ、いっしょにあそぼうよ
これは「真宗本廟子ども奉仕団」の趣旨文(抜粋)である。わたしをわたしのままに受け容れてくださるほとけさま。子どもたちもスタッフも、ともに「ほとけの子」であるという安心感の中で、互いの違うところを認め、尊重し、ときには面白がる。ここに「いる」自分がそのまま受け容れられるという経験。子どもたちは、真宗本廟でのひとときを通して何を感じてくれただろうか。日常の家庭・学校生活に戻った中で、何かの気づきがあっただろうか。
真宗本廟夏の風物詩ともいうべき子どもたちの弾む声が、境内のそこかしこで響いていた。(真宗10月号より)

子どもは大人になるけど、大人は何になるのでしょう?
子どもも大人もみな、ほとけの子。
いつも、妻には小学5年生みたいと言われております😹

願入寺シェアキッチン

今日は月2回の願入寺シェアキッチンの日。

ランチはあっと言う間に売り切れてしまい、私と妻の分が無くなってしまいました😹
でも、美味しい美味しいと言って食べて下さる皆様の声が何よりのご馳走になりました🙏😌✨

有難う御座いました♪
またのお越しをお待ちしております😊

お彼岸お中日

お彼岸なのに体調が悪いもんで、ご近所さんからの差し入れ😭優しい😹ありがとうございました♪🙏🙇😌✨

彼岸会

彼岸花
彼岸会が近づいて参りました。
ニッパチの日に合わせての法話会になります。
勉強しなきゃ😹🙏

暑さ寒さも彼岸まで

「暑さ寒さも彼岸まで」
残暑と言うより、残残残暑と天気予報では表見されていましたが、酷暑もようやく一息ついた頃、秋のお彼岸を迎えようとしております。
彼岸という名は、仏教の原語ではパーラミタ、訳して到彼岸ということであり、此の岸から彼の岸にわたるということです。信なきものが法を聞いて信心の彼の岸へ到るということで、人間生活の「まこと」の生活を確かめる行事です。
まことの生活とは、「驚き、感動、発見」の生活です。

「この前ご門徒の家に行きまして、小さな三つの女の子と遊んでいましたら、下から僕の顔をつくづく見上げて、女の子がどう言ったか、「おじちゃんの鼻の中に草生えとる!」
私はこんな言葉を聞くと、とても感動するんです。何と皆さん、子どもの世界は新鮮な驚きがあるじゃありませんか。我々は、「鼻の中に生えている毛は鼻毛だ」という知識で覚えています。だから何の驚きもありません、知っていますから。しかし三つになる女の子にとって、草っていうのは田んぼや道路に生えているものが草だと思って、ふっと下から見上げてみたら、鼻の中に草が生えとった、その驚きです。我々にはもうないですね。「わかっている」「知っている」ということにおいて、どれだけ新鮮な驚きがないでしょうか。
しかし、この身を外さずして教えを聞けば、無限に驚きじゃないでしょうか。
驚きの容れ物じゃないでしょうか、この身は。「仏法をたしなみそうろうひとは、大様になれども、おどろきやすきなり」(「蓮如上人御一聞書」、「真宗聖典第二版』一〇三八)という言葉が蓮如上人にありますね。新鮮な驚きです。
私は、学生時代に正親含英先生の授業を受けても、本当にお粗末なことであったんですけど、ご縁とは不思議ですね。学校を出てから初めて先生にお会いすることができました。それはもう先生の最晩年でありましたけれども、私どものお寺にも、本当にもう亡くなられる何ヶ月か前に来ていただきました。私の忘れられない先生のお一人であります。その先生から書いていただいた書が今も私の部屋の中に大事に大事に掛けてあります。「泉古水新」という言葉なんですね。泉は古く水は新しい。これは信心に証された人間のいのちを言うんじゃないでしょうか。
光を蒙った時の人間のいのちは (泉は久遠の昔から湧き出ているんだけれども、そこから溢れ出る水は一瞬一瞬新しい) と同じように、如来さまから、仏さまから、真実の教えから、よきひとから光を蒙る、呼びかけを蒙って、そこから発起していく深い頷きは、あの泉から出る一瞬一瞬の水のようにいつも新しい。「これまで」ということはないんでしょうね。いよいよこれからなんでしょうね。そうだと思うんです。
私はもう五十を過ぎました。五十を過ぎると若い時に頼りとしていたこと、喜びとしていたこと、楽しみとしていたことが、だんだん間に合わなくなります、必然的に。それが老いるということでしょう。しかし、歳をとっても歳をとっても、いよいよはっきりしてくる喜びが一つあるんじゃありませんか。これは和田稠先生も仰ったんですけどね、「人間における誰もがいただいていける、たった一つの、人間の一番深い喜びは、この身が知らされるという喜びだ」と。本当にそうだと思いますね。
聞くということが喜びなんです。「なるほど、そうか」とこの身が感ずると、身体が返事をすると、このいのちが喜びだすんですね。そういういのちを身としているのが、私は人間だと思います。
法話CD「本願に生きた念仏者」⑤『光を蒙る』(東本願寺出版)より

お彼岸は人間生活の「まこと」の生活を確かめる行事です。
それは、「まこと」ではない者同士が、真実まことを確かめて行く生活なのです。
南無阿弥陀仏