「いのち」みえますか

本願寺派の教学伝道研究センターで、教学シンポジウム「いのちをみつめて~教育の現場から~」が開催されました。十代の若者の「いのち」に対する率直な意見を聞く場として企画されたそうです。
そこで「いのちの教育」の先駆者として知られる福岡県立久留米筑水高校の教諭、高尾忠男さんが基調講演されました。高校で取り組む「いのちの授業」で、生徒たちに卵から育てさせた鶏を、自分の手で殺傷させて、水炊きにして食すというところまで実施しており、シンポ冒頭に、その授業の模様を紹介したドキュメンタリービデオが上映されました。その記録の、号泣し何度もためらいながら鶏にとどめを指す女子高生たちの成長の軌跡が、シンポに参加した高校生に生々しく伝わったのです。
そして、この授業を実際に経験した同校卒業生の坂井美紗子さんは「いただきます」の六字がただの食事の挨拶ではないことを、自分の子供に伝えたいと言われております。
普段「いのち」は自分の所有物のように考えておりますが、「いのち」を「いのち」たらしめている世界を見失って生きているのです。坂井さんが言われる通り、「いただきます」は、沢山の「いのち」をいただいて存在する私たちの「いのち」をいただくことばなのです。スーパーに買物にいくと肉や魚の切り身がパックに入って売られているので、牛・豚や魚の「いのち」が見えません。魚から骨まで抜いて売る時代ですから、魚はもともと骨がないものと思う時代が来るのかもしれません。
病気になったら病院で、苦しむ姿を家族に見せず、死ぬのも病院で、死にゆく姿を家族に見せず、見事に飾りつけた祭壇で葬儀を営む今日、ますます人間は本当の姿、現実を見失ってしまうのです。
「いのち」そのものを見失って生きるありようを仏さまは迷いと言われるのです。(帯広別院輪番名畑龍童)