「報恩講」−出口なき暗闇からの解放−

明治維新後、日本は西洋の価値観を基準として、文明開化・殖産興業・富国強兵の道を猛進してきた。西洋思想の基本にはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」があり、人間は万物の霊長であると考えた。人間は考えることができる唯一の存在であるが故に、どのような困難な問題でも、人間の知恵、理性、知性によって、必ず解決できるのだと考えた。
しかし、どれだけ深く考え、思い巡らせても限界がある。その証拠に、我は正義なり、と考えて戦争をし、自分の思い、考えにあわないものを差別、排除し抹殺する。また、合理的に豊かで快適に、便利で早い生活をしようと考えた。その結果、今日、大量生産、大量消費そして大量破棄によって自然を破壊し、自らの存在の根拠さえも風前のともし火となっている。人類、いや地球の未来に、もう夢や希望はもてない、出口なき暗闇である。すなわち三悪道(地獄・餓鬼・畜生)そのものである。終わりなき闘争とむさぼり、束縛の世界である。人間は理性や知性あるが故に存在しているのではない。
清沢満之先生は「絶対無限の妙用に乗推して、任運に法爾に比の境遇に落在せるもの」といわれる。
人間の知恵では、はかり知ることのできない限りないはたらきの中に、すべての存在はあらしめられてあるのだと。
阿弥陀知来はこのような自我意識(我思う、ゆえに我あり)に自縄自練されている愚かな私を、すべての存在を存在たらしめている、時空を超えた限りなきはたらきの世界にめざましめるのである。
このことのほかに暗闇からの出口はない。(帯広別院輪番名畑龍童)