住職とは

昨日は、札幌で教研12期のOB会に参加させていただきました。

その中で、心に残った先生のお話がありました。

先生のお寺では、年間40ほどの行事があるそうです。

今から30年前、先生が住職修習に参加された時のこと。

「お寺にはいろいろな行事がある。あれもしたい、これもしたい。門徒カードを作って、一度もお寺に来ない門徒さんは檀家から外そうと思う」

そんな抱負を述べられたそうです。

すると翌日、ある先生から、

「住職は何もしなくていい」

と言われたそうです。

なぜなら、

「仏事は如来のお手回しであって、人間の仕事ではない。如来の仕事を奪ってはいけない。じっと待つしかないのだ」

と。

そのことを、また別の先生にお話しすると、

「お前がもしサラリーマンの家に生まれて、お寺さんから100回も200回もお寺に来いと言われたら、お前は行くか?」

と問われたそうです。

なるほど……。

お寺に来ていただきたい。

仏法を聞いていただきたい。

その思いが、いつの間にか「来るべきだ」「聞くべきだ」という、自分の思いになってしまう。

そして、来ない人を責め、ついには切り捨てようとする。

「案内を出すことや掃除をすることは、人間の仕事。しかし、来るか来ないかは如来の仕事」

何とも深いお言葉です🙏

お寺の行事を企画し、案内を出し、掃除をして、皆さんをお迎えする準備をする。

それは私たちにできることです。

しかし、何人来たか、誰が来なかったか。

その結果まで自分の思い通りにしようとしてはいないだろうか。

私のお寺でも、毎月法話会を開いております。

お一人しか来られない日もあれば、たくさんの方がお越しくださる日もあります。

けれど、一人だから失敗で、たくさん来たから成功ということではないのでしょう。

人を集めることが目的になった時、仏法を聞く場が、いつの間にか自分の成果を確かめる場になってしまう。

そして、何より心に残ったのは、

「じっと待つしかない」

という言葉でした。

待つということは、何もしないことではありません。

自分にできることを精いっぱいしながら、相手を自分の思い通りにしようとしないこと。

そして、来ない人とのご縁も、こちらの都合で切ってしまわないこと。

「如来の仕事を奪ってはいけない」

結果を自分の手柄にせず、できることを続けていくことなんだろうと思います。

30年前に先生がいただかれたお言葉を、昨日、私も聞かせていただきました。

お寺を預かる者として、忘れてはならない大切な問いをいただいた研修会でした。

北海道教学研究所

先日、10年ぶりに開催された12期教研OB会へ行ってきました。

久々の札幌。寒い。

おいでと先輩。行ってらっしゃいと妻。

発遣と招喚によって行くことが出来ました。

有難う御座いました。

竹中先生

竹中先生の直筆のコピーが出てきました。

「くらべず、あせらず、あきらめず」

いつ聴いても新鮮です🙏

経は鏡なり

床屋さんと歯医者さんへ

前歯が欠けてしまったので、歯医者さんに。

当たり前ですが、床屋さんに行っても歯は治りません。

仏教にもいろいろな宗派があり、それぞれに素晴らしい教えや修行があります。

しかし、阿弥陀さまが、この私のために用意してくださった「弥陀の妙薬」。

その薬を教えてくださったのが親鸞聖人です。

どれほど素晴らしい薬があっても、飲まなければ病は治りません。

そして、どれほど素晴らしい教えがあっても、この私自身の問題として出遇わなければ、意味がありません。

煩悩具足の凡夫である、この私のために用意された薬こそ、弥陀の妙薬なのです。

ところが、この私は、自分が病んでいることさえ、なかなか気づくことができません。

歯が欠けたことは、鏡を見ればわかります。

しかし、自分自身の本当の姿は、なかなか見えません。

「経は鏡なり」

人の欠点はよく見えるのに、自分の姿は見えない。

人には厳しく、自分には甘い。

都合の悪いことは見ようとしない。

そんな私の姿を知らせてくださるのが、仏法なのでしょう。

阿弥陀さまは、そのような私を見透かし、なお見捨てることなく、南無阿弥陀仏となってはたらき続けてくださっています。

歯の治療は歯医者さんへ。

髪の手入れは床屋さんへ。

そして、私の迷いの病はお寺へ。

歯は治っても、煩悩は治らず。

煩悩をなくすことのできない、この私。

そんな私だからこそ、阿弥陀さまの本願があるのでしょう。

治ってしまっては、本願そのものが必要なくなってします。

南無阿弥陀仏