お雛さん

お雛さんを飾りました。

どっちが右?論争が勃発しました…

うちはうち、そとはそと!!

南無阿弥陀仏

おみがき

「おみがき」とは、お寺の真鍮の仏具を一つずつ手作業で磨く作業の事です。大きな法要の前に行う大切な行事です。
今年は、真宗大谷派開教者会の報恩講、東京教区の親鸞聖人御誕生850年、立教会宗800年慶讃法要の前2月23日(日)に行います。(私も坊守も法務でいけませんが💦)

おみがきは、御門徒さんとお寺さんが一緒に車座になって、わいわいおしゃべりしながら、人との出会いや語らい・触れ合いを大切にしてきた伝統ある行事です。

ぜひご都合ある方はご参加ください🙏😌✨

南無阿弥陀仏

後期修練

いよいよ副住職は後期教師修練へ京都本山東本願寺へ。
教師修練とは、真宗大谷派の教師資格を取得するための研修です。独学でよくここまで頑張りました。拍手👏ですね素晴らしい✨

南無阿弥陀仏

立華

お寺の仏華は生けるのではなく、立てるといいます。私はきちんと習ったことがないので、正式なお作法がなっておりません。習うより慣れろ、とはいきません。今年は機会を見つけようと思います。

そんな私ですが、花を選ぶ時に心掛けていることがあります。季節が感じられるのは当然で、何のためか、ということ。昨日のご法事は「明るく優しいお母様だった方」とお聞きしていたのでカーネーションを選びました。一緒にお勤めがかないませんでしたので、丸刈りの私に似た丸菊も。

季節はすでに梅から桜に変わってきました。

肩衣

これは肩衣(かたぎぬ)と呼ばれるもので、御門徒さんがお参りの際に首にかける袈裟です。今まで願入寺の御門徒さんの肩衣が無かったので、この度新しく新調しようと思います🙏😌✨

南無阿弥陀仏

ダルマさん

ダルマさんは、禅をインドから中国に広め大成させた、中国禅宗の開祖、達磨大師がモデルになっています。
元々は禅宗なので、浄土真宗の私たちには関係はありませんが、同じ仏教なので全く関係ない!とはいえません。

ダルマさんを見ていて思ったことは、ダルマさんには目がないと言うことです。
選挙の時くらいしか見ないダルマさん。願いが叶うまで目がありません。

仏教の仏とは、お釈迦さまの仏陀のことで、覚って目覚めた者と言う意味があります。
目が覚めると言うことは、迷いから目が覚めると言うことです。
私たちの迷いは自分中心、自分さえ良ければ人はどうなってもよい。人の願いは知らんぷりで、自分の願いだけは叶えてほしい。
そんな自分勝手な私が何に目が覚めるかと言うと、2つの自己と自我(エゴ)に目が覚めるのです。
自己とは、
肌の色・経済・性・能力・容姿・健康・社会的地位、それぞれに様々な違いがあっても、決して分け隔てしてはならない、人間として同じ「いのち」であり、存在は絶対平等ないのちを生きている。それが私たちの原点、人間の始まりです。

そして、自我とは

存在の事実は、みんな同じいのちのはずですが、私たちの利害を中心とした日常の生活では、無意識に自我を土台にしてエゴイスティックな心に従って生きてしまう。
自分たちの利益が優先され、その利害に合わないものは排除し、抹殺していく。
自我とは分別心です。物事を二つに分けて考え判断する心です。どういうふうに分けるかというと、善・悪、優・劣、上・下です。それによって私たちは序列を作り、比べ、価値付け、優越感に浸ったり、劣等感に沈み込んだり、そうして自分も他者も傷つけていくのです。戦争・テロ・いじめ・虐待を引き起こしてしまうような、自分自身に目が覚めるのです。

しかしこれだけでは、ただ知ったということにとどまり、観念的な理屈だけで終わってしまう可能性があります。また、知ったからといって自我の心がなくなるわけでもありません。

自己といういのちに自我の心で背き、背いていることにも気づかず、自分を正当化して自己中心的に生きている愚かな悲しい存在であることを感覚する。

つまり解釈や知識という頭での理解ではなく、この身に実感するということです。それが感受です。そこには必ずこの身の痛みがあります。
人間は、どこまでも傷つけ合うことから離れられない現実を抱えています。ウクライナやパレスチナの問題がよくそれを示しています。一度戦争が始まるとリセットができません。政治で解決しようとしても政治では解決できません。国連の姿を見ればそれがよく分かります。
人が殺戮されていく現実よりも利害が重要視されてしまうのが、人間の悲しい現実です。
人類の長い歴史を背景に、人間が引き起こしてきた様々な問題を本当に解決していく道は、一人ひとりがいのちの尊さ、重さに立ち返り、自分たちの利益中心の自我の心が他者を苦しめているという痛みの中で、その痛みをお互いが感じ取っていく、つまり感成していくことしかないのです。「成道」は、道が開かれ成就することです。人間の内なる痛みこそが人間の救いとなっていきます。それがお釈迦さまの覚り「成道」です。

ダルマさんから、目覚めよとの声が聞こえてきます。

南無阿弥陀仏

《重要なお知らせ》

日頃より、寺子屋〜ひよこ〜にお気持ちを寄せていただいてる皆様方に感謝申し上げます。
願入寺は寺子屋の一環として、昼間は子どもの駆け込み寺、夜は大人の駆け込み寺として坊主バーをオープンさせたり、豚丼屋、駄菓子屋をしたりしておりましたが、本業は浄土真宗の寺院である聞法の道場であります。全ての活動の目的はお寺に足を運んで聞法していただくための方便です。営利目的ではありません。商売をするためにお寺をしているわけではありません。子どもたちの放課後に宿題をする場所、シニア世代の憩いの場の提供をしたくて寺子屋を始めました。それが、いつの間にか豚丼の定食屋になりつつあります。非営利団体として、子ども食堂や炊き出しをしているならまだわかりますが、住職や坊守がお参りで不在の中、人にお願いしてまで、お寺が定食屋をする必要はありませんし、定食屋をして商売をする事が目的ではありません。今後は、月一回の子ども食堂のために、28日の法話会のために、美味しい豚丼を食べてもらいたくて提供させていただきたいと思います。寺子屋として、住職や坊守が不在の時のお留守番として、お願いした最初の思っていた方向と違う方へ進んでいる事に気がつき、軌道修正をしたいと思います。◯◯さん今まで豚丼のお手伝いくださり誠に有難う御座いました。試行錯誤した豚丼は決して無駄ではありません。今後は月一回の限定で美味しい豚丼を食べてもらいたくて、子ども食堂で提供させていただきます。
シェアキッチンに関しましては、今後も面談の上ご利用者様の夢を応援させていただく為に提供させていただきます。
プレオープンから豚丼のリピーターとして楽しみにして来てくださいました方々、本当に有難う御座いました。今までお寺の事しかわからない飲食の素人が簡単に出来るものではないと思い知りました。普段の通夜葬儀、法事のお参りだけでも帰宅してヘトヘトになるくらい真剣勝負、一発勝負、緊張との戦いの大変な仕事の毎日です。法務以外にもあれもやりたい、これもやりたいという思いだけが先走り、大切な何かを見失っておりました。まだまだ、未熟な住職です。皆さまのご指導ご鞭撻をいただきながら、まだまだひよっことしてよちよち歩きですが、往生極楽の道を求めて、願入寺を支えてくださる御門徒さんを第一に考え共に歩んで参りたいと思います。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。合掌
追伸、今後も坊主バーは予約制でオープンさせていただきます。随時お知らせとして投稿します♪