お念仏

念仏申さなければ助からない。聴聞しなければ助からない。どこまでいっても助からないとはっきりする事が助かるということ。悩み苦しみがなくなれば何を頼りに生きて行っていいかわからない。悩み苦しみが生きる力になる。それがわたしの探し求めていた人生。
南無阿弥陀仏

自分にあう

今月は別院年間最大の仏事「報恩講」が10月27日から30日まで勤まります。別のご門徒である以上は必ずこのご法要に参加して下さい。参加しないならば別院のご門徒とは言えないのです。

どうして私達が、ご法要、報恩講に参加しなければならないのでしょうか。それは仏様が、親鸞聖人が、ご先祖がこの私を呼んで下さっているからです。呼びかけなど聞きたくない、必要ない、そんな呼びかけなど有るはずがないと言う人は人とは言えないのです。

呼びかけを聞こうとしない人を人の姿をした鬼であり、餓鬼、畜生と言うのです。三悪道という在り方しかしていない動物、まさしく動いている物にしかすぎないのです。困ったことにこの動いている物、三悪道に埋没しているにもかかわらず、この事に何の疑いもなく生きています。

しかし、この動物はどうやってみても、どうなってみても落ちつきません。これで良かった、これで大安心、これで大満足という状況には決して到達しないのです。せいぜいこれくらいのところで満足しなければならないと、しぶしぶ自分に言い聞かせ、気休めしているくらいが精一杯でしょう。

そんな在り方をしている私達に、それで本当に落ちつけるかと、どこからともなく呼びかけられます。どこからともなく不安が出て来ます。なんとなく淋しさを感じます。どうなっても虚しさをいだきます。このようなせっかくの呼び掛けを私達は無視して、ごまかし続けて生息しているだけなのです。ごまかしには決して解決という事がありません。来るべき時は来ます、多少の長短は有ってもご臨終です。こんなはずではなかったという後悔のみが残ります。

三悪道とは自分の思いを遂げる為に、全ての存在を利用し、自分の思いにかなわないすべての存在を排斥する生き方を言うのです。そのような生き方を拠り所にしている私達に、頼りにならないものを頼りにしているのではないかと、眼を覚ましなさいと、仏様が、親鸞聖人が、ご先祖が呼びかけて下さるのです。本当の「いのち」に出遇いなさいと、呼びかけて下さる声を聞かせて頂く尊いご法要、御仏事が「報恩講」なのです。是非とも本当の自分自身に出あわせて頂きましょう。 「東別院テレホン法話より」

住職とは

住職は住む仕事と書きます。つまりお寺に住み続けることが仕事ということです。住み続けると言っても、お寺は住職の所有物ではありません。御門徒さんの共有財産をお預かりしている留守番役です。留守番と言ってもただ何もせずいるだけではなく、親鸞聖人が処方して下さった弥陀の妙薬をいただく入院患者です。御門徒さんは通院患者です。住職は入院患者ですから御門徒さんよりも重症なのです。

そして聞法の道場として、内陣の荘厳をし境内を掃除する草むしりが仕事です。月忌参りや葬儀、法事が仕事ではありません。

しかし、草むしりだけでは食べていけないので、托鉢して回り施しを受ける事が必要なので、お勤めの研鑽が必要です。

その托鉢は仏縁を結んでいただく大切な仏事なので疎かには出来ません。一発勝負の真剣なお勤めです。

私も行きたいお寺と行きたくないお寺があるように、御門徒さんもあると思いますが、行きたいお寺、行けなくてもお寺に住職がいるだけで安心と言われるくらいではなけれはならないと思います。

南無阿弥陀仏

100点

100点💯凄いじゃん!
パパ100点なんてとったことないよ😄

人類に捧げる教団

『もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちに圧しかかっているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできません。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です』。安田理深師

『浄土真宗は人類に開かれた教えです。ですから、誰が聞いてもよろしいのです。真宗門徒だけの親鸞聖人ではないのです。すべての宗教の地下鉱脈なのです。仏教徒だけではなく、キリスト教徒でも、イスラム教徒でも真宗に遇わなければなりません。

同朋会運動は、門徒を増やしたり、強くしたりするための運動ではありません。キリスト教徒が親鸞聖人の教えを聞いたら、キリスト教をやめて真宗門徒になったり、仏教徒になるのではないのです。

キリスト教徒が浄土真宗の教えに遇うと、キリスト教がより深くいただけるのです。イスラム教徒が、真宗門徒に改宗するのでもありません。イスラム教がいよいよ深く頷かれるのです。そういう「生まれて生きる」という一切衆生に開かれた教えが浄土真宗なのです」と。

私たちは、一宗一派という狭い中をウロウロしていたのではないかと思います。御遠忌を契機に、閉じられた殻を破っていかなければなりません。 (藤田輪番)