ご近所さんから珍しいサボテン🌵をいただきました😌
小さな花壇ですが綺麗にしなくっちゃ🙏😊(雑草との戦いが始まります)




住職の独り言ささやきです。親鸞聖人は小さなつぶやきやささやきに耳を傾けて人々の言葉を聞き逃さなかった方だと思います。
ご近所さんから珍しいサボテン🌵をいただきました😌
小さな花壇ですが綺麗にしなくっちゃ🙏😊(雑草との戦いが始まります)




次の日の朝は14℃。
気温差が激しい😹






今日はそれぞれの場所で、丁寧に精一杯のお勤めを🙏
関東で暑いと言われている所へ来たけれども…
34℃…
4月11日です



よし、花壇に芝桜計画を開始しよう
かな😄


4月の願入寺通信が出来ました😊
先日、首都圏大谷派開教者会の報恩講にて、
25年ぶりに雅楽を務めさせていただきました。
久しぶりの雅楽、そして初めての出仕。
緊張の連続でしたが、無事に終えることができ、ホッとしています🙏
首都圏には約4000万人の方が暮らしていますが、
真宗大谷派のお寺は決して多くはありません。
八王子にはわずか3カ寺。
その中で、
「地域に開かれたお寺」として、
日々のご縁を大切に活動しています。
子ども食堂では、
たくさんの子どもたちと温かい時間を過ごしました😊
ご提供いただいた新鮮なお野菜にも心より感謝です🙏
⸻
【毎月28日】
13時〜 法話会
16時〜 子ども食堂
どなたでもお気軽にお越しください😊
⸻
4月8日は「花まつり」
お釈迦さまの誕生をお祝いする大切な日です🌸
日々の生活の中で、
仏教を少しでも身近に感じていただけたら嬉しいです🙏
⸻
ともに生き、ともに育ちあうお寺。


中々タイミングが合わず、
今日やっと車の1年点検へ🚗💦
(ディーラーの都合もあれば、こちらの都合もあり…)
自分ばかりメンテナンスしていないで、
車のメンテナンスもしなきゃですね😊
あ、ちなみに風邪はまだ完治してません🥲💦
(ほぼほぼ良くなりましたが🙏)
人も車も、
無理せず整えていくことが大切ですね😌


近所の本屋さんが無くなって、早一年。
すっかり建物も変わりました。
田口ランディさんの、「読書の愉しみ」と言う文章が思い起こされます。
「読書は映画やお芝居とは、まったく違うものです。どちらかと言えば落語に近いかもしれません。以前に落語好きの人に落語の楽しみ方を伺ったことがあります。落語は噺家の語りを聞きながら頭の中でありありとイメージを思い浮かべるところに楽しみがあるのだそうです。
落語が好きではない、という人はそのイメージを想起することが苦手な人ではないか、と彼は言いました。落語好きは落語を聞きながら映画を観るように悩内で映像を楽しんでいるのだそうです。
本もいっしょです。本好きの人の頭には映像が浮かんでいるのです。それは誰も見ることのできない自分だけの映像です。
この世には存在しない不思議な映像です。読書に没頭すればするほどありありと見えます。ですから、読書とは自分が意識して本の内容に入り込み、自分から本の世界に分け入っていかなければなりません。脳がフル活動し、視覚野や聴覚野までも刺激され、イマジネーションが活発になり、脳全体が働いているような状態になる、これが読書なのです。脳は自分が聞きたい音を聞き、見たいものを見るという能力があるのです。
映画やテレビは違います。音も映像も圧倒的な強さで向こうから入ってきます。こちら側の想像力は要求されません。与えられたものを楽しむのが映画です。これに慣れてしまうと自分を興奮させるものだけが素晴らしいと思い込み、本のように自分から自己関与していかなければならないものをつまらないと感じてしまいます。
本から何を得るかは、読み手次第なのです。自分のイマジネーションを鍛錬し、文字を映像に音にと脳内で創造するクリエイティビティとして遊ぶものが読書です。本は与えてくれません。
本は旅をする森であり、その森で何と出会うかは、読者次第なのです。
ある人にとっては、記号だらけの物理学や数学の書物が、宇宙の神秘を解き明かす美しい音楽として感じられます。また、ある人にとっては詩集が、生と死のあわいを描いた繊細なタペストリーとして感じられます。
どのような本もその本から何を得るか、何を感じるかは読者のイマジネーションに委ねられています。そのイマジネーションを刺激し続ける作品が、時代を超えて語り継がれてきました。
古典と呼ばれるものを繙けば、そこには物語の世界、ファンタージェンが広がっています。でも、物語はそこに自らが自分の脳を使って入っていこうと、集中しないかぎり、入り口の扉を開いてくれないのです。自分のイマジネーションを使わない限り、入っていけない森なのです。そのことを現代の人たちは忘れがちです。ただ座っているだけの観客を楽しませてくれるエンターテイメントとは違うのです。
私は、映画を観るように映像の世界を楽しみながら本を読みます。本と私の内的世界は完全に一致してしまいます。それが読害の愉しみです。」
あの場所には、
たくさんの“物語の入り口”がありました。
読書は、与えられるものではなく、
自分で入り込んでいく世界。
同じ一冊でも、
見える景色は人それぞれ。
だからこそ、
本は「自分だけの世界」を持たせてくれるのかもしれません。
便利になった今だからこそ、
少し立ち止まって、
自分の中に広がる世界に耳を傾けてみたいものです。



BASEL工房祭(4月26日(土))
の一環として?マップに載せていただきました。
洋菓子店のマップにお寺が?と少し違和感がありますが、地域密着型のお寺として、こうして町の中に自然と溶け込ませていただけることは、とても有難いことだと感じています。
お寺は特別な場所ではなく、
本来は誰にとっても開かれた場所です。
ふらっと立ち寄れる場所として、
お菓子屋さんやお店を巡るついでにでも、
気軽にお参りいただけたら嬉しいです🙏😌



早いもので、今年もあと268日となりました。
風邪ひきさん9日目。
ほぼ治ったと言っても過言ではありません。
その間、お勤めに行ってくれた坊守には感謝の言葉もございません。
今日は運転手もしてくれて、一緒にお勤め。
葬儀は、ひとりでは勤められないのです。
いるのと、いないのとでは、0と100の違いがあります。(物質的な意味ではありません)
「おれは、助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!!」
(モンキー・D・ルフィ)



新聞をヨム日に。
新聞のコラムを読んで、ハッとしました。
「毎回落ちてくるエサ」は、安定していて安心します。
でもそれは一方で、
自分で考えずに“流されているだけの安定”でもあるのかもしれません。
気づかぬうちに、「大きな魚のえさ」になっているとしたらどうでしょう。
主体性を失い、流され、判断できず、受け身のまま。
そして、誰かに消費される側になっていく。
それを仏教では「無明(むみょう)」といいます。
わかったつもりでも、実は動かされている。
そんな迷いの中にいる姿です。
気づけば、SNSで一日が過ぎてしまう自分。
たまにはそんな日があってもいい。寝込んでましたからね。
でも、ずっとそれでいいのかと問われた気がしました。
「大きな魚のえさになる」とは、
自分で考えずに生きることで、誰かに消費される存在になること。
そしてまた、自分も誰かを消費する側となり、
その世界をぐるぐると巡っていく。
ふと、そんなことを思いながら、スマホをいじっております🙏
